判決はわたしをアレフ幹部としていません(2019年6月25日 公安調査庁を訴えていた裁判の判決について共同通信が行った誤導報道について)

判決はわたしをアレフ幹部としていません(2019年6月25日 公安調査庁を訴えていた裁判の判決について共同通信が行った誤導報道について)

 
 
 去る6月25日、公安調査庁がわたしをアレフの幹部だと虚偽の主張をした件につき、公安調査庁を訴えていた裁判の判決がありました。結論だけ述べると211ページの敗訴判決でした。
 わたしはアレフから「悪魔」や「気が狂っている」人間として扱われており、公安調査庁の主張は、現実を完全に無視したものでした。なお、現在は公安調査庁もわたしをアレフの幹部だという主張は行っておりません。
 
 この判決につき、当事者であるわたしには何ら取材をしないまま共同通信は「松本智津夫元死刑囚の三女が敗訴 オウム幹部認定取り消さず」(共同通信)と、あたかも公安調査庁の虚偽の「認定」が正しかったと誤導するようなタイトルをつけて報じました。この共同通信の記事は、地方紙の多くに掲載されました。
 
 実は、この判決において、公安調査庁の「認定」が正しいという判断は行われていません。
 
 
 わたしは、公安調査庁の行った幹部「認定」について、取り消しを求めた行政訴訟――取消訴訟を起こしていました。そこで、裁判所は幹部認定が「行政処分」にはあたらず、従って取消訴訟の対象とならないと判断したのです。
 そのことは、判決文を読めば明らかです。
 
 この判決は「処分とは,公権力の主体たる国又は公共団体が行う行為のうち,その行為によって直接国民の権利義務を形成し又はその範囲を確定することが法律上認められているものをいう」(判決15ページ)とし、これを前提として、「幹部認定」は、「当該行為により直接原告の権利義務を形成し又はその範囲を確定する効果を有するとはいえない」(判決16ページ)としたのです。
 
 
 お読みいただければわかりますが、裁判所がかつて公安調査庁が虚偽主張した「幹部認定」を事実として扱い、「幹部認定」を取り消さなかったということはないのです。
 
 すなわち、裁判所は公安調査庁が行ったわたしが「幹部」であるという主張を正しいと認めていないことをここで明らかにしておきたいと思います。
 
 以上から、当事者に取材もせず、何の説明もなく「幹部認定を取り消さず」と誤導するような見出しを書いた共同通信に対し、誤った見出しであったこと、及びこのような見出しをつけた理由について説明を掲載することを求めます。
 
 

判決はわたしをアレフ幹部としていません(2019年6月25日 公安調査庁を訴えていた裁判の判決について共同通信が行った誤導報道について)」への6件のフィードバック

  1. いったいどうすれば信じてくれるのよね?これ以上ないのに。署名集めは効力無いのかな…
    テレビも雑誌も、ネットニュースも、本来正しい事を伝えなければならないのに、そんな視聴率欲しいわけ?
    世の中信用出来ないよ。
    この事が晴れれば、心も全然変わるし、生活も変わるのに。どうすれば良いのかな…

  2. 主語をハッキリさせないといけない。

    ?(この世は)諸行無常である。

    ?(この世の)諸法は無我である。

    ?(この世に{住む我々の})存在は悪業を生む。

    よって

    ?(この世は)一切皆苦である。

    ということです。この場合の主語は“この世”です。‥と、こう言うと、「ほら見ろ!やっぱり存在が悪なんだぁ!」「世界には絶望しか無いんだぁ!」と、例のGくんが喚き出しそうですがw これはそうではなく、ここで言っているのは、“この世に”希望が無いと言ってるのであって、“全ての世界に”希望が無いとは一言も言ってないってことなんですね。

    エェッ!

    映し世であるこの世界はあまりに短い。安住しようにも寿命はあまりに短いのです。この世界の中で系を閉じ、答えを探そうとしても、それ自体に土台無理があります。

    仏教では、この世からあの世へ、此の岸から彼の岸へと言います。サムサーラからニルヴァーナへです。鏡に映された世界ではなく、実体の世界へ至りましょうということです。

    そして、そこに到達した魂で、素質ある者はこの世に留まり、他の人に対してもニルヴァーナへの道を説く。これは?の所ですね。そうすれば、それは、もはや諸法の無我などではなく、諸法の真我(への道)となるので、??と後の展開が変わってくるということです。脱構築、ポストモダンなんですよ。これが仏教の解釈です。ですから仏教とは希望なのです。

    ‥これの何が間違ってるんでしょうか?間違ってるなら間違ってると根拠を示して貰いたいものですよ。

    「麻原の説いてるのは仏教じゃないんだ!」という人が仏教を知らないんだからw 思い込みで人を責めてちゃ駄目です。正に諸法は無我ですね。

  3. ?諸行無常

    これはいいんですよ。理解し易いと思いますし、この考えは国民に広く浸透しています。祇園精舎の鐘の声諸行無常の響きあり♪と歌われた位なので、よく知れ渡っています。

    ?諸法無我

    これなんですよ。これが難しい解釈をされてしまって理解されてないんですよ。どういうことか?というと

    例えば、アンバパーリーというお釈迦様のお弟子さんがいて、この方は女性で、美しい長い黒髪を持ち、大層自慢に思っていましたと。容姿も美しい。ですが、彼女が年老いて、容姿が大変衰えてきて、「長い髪がパサパサになり、白髪も混じり、或いは抜け落ち、顔中に皺がよってしまった」と嘆き悲しんだという詩があります。

    こういうのも、諸行無常を諸行無常と見ていれば、苦しむことは無かったんです。髪が抜け落ちる、白髪だらけになる、そんなの分かりきったことじゃないですか。ですが、彼女はそのようには見れなかったと。それは何故かというと、それは執着があったからでしょうね。

    人間には、本当に無知の(認識出来ない)場合と、意図的無知の二つがあります。アンバパーリーの場合は、彼女自身が“衰えるのを知っていて”も、見ないようにした(見たくなかった)という意図的無知だと思います。

    見ないようにし、一時の自身の美しさを称える声だけに耳を傾けたわけです。正に観念を形づくったわけです。観念以外の何物でもない。こういうのが諸法無我です。

    衰えるという諸行無常の実体があって、衰えを認めたくないという諸法無我(観念)があって、その結果悪業を積むという三番目が来ています。といっても、彼女の場合は積極的な悪業ということではなく、膨大な時間を浪費した、意味の無い時間を失ったという、損失の悪業ですけどね。蜃気楼を追い掛け続けたみたいなものです。その挙げ句、幻影が消え大変苦しんだと。

    ????とありますが、これは連続していて、それぞれに関係性があるわけです。重要なのはプロセスです。

    「麻原は仏教を説いてないんだぁ!」という。じゃあ仏教を知ってるのか?訊くと、今度は「麻原は仏教を使ったんだぁ!恐るべき仏教なんだぁ!」という(笑)。使ったにせよ使ってないにせよ、仏教自体を知らなけりゃ判断出来ないでしょうに。

    仏教を使ったのかね?使ってないのかね?どっちなんだね!

    待てど暮らせど一向に仏教の説明をしてくる気配がないので、私が今説明をしています。

    コメントを読んでる人のことも考えましょう。

  4. こんにちは、
    立場なのか?権利なのか?組織なのか?。
    集団意識で、令和になっても、反社で、
    右?左な組織は出来てしまうと思う。

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