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安心感

父がいた当時、わたしはかなり内向的で、本当に思ったことは口に出せませんでした。

またうまくしゃべることもできなかったため、他の人との意思疎通に困ることがよくありました。

わたしの発音が悪く、言葉を聞き取ってもらえないのです。

でも父だけは、口に出さなくてもわかってくれていました。

「ああ、お父さんはわかってくれている」
という安心感がありました。

わたしはそんな父が大好きだったので、父のために何かできることが、とても嬉しかったのです。


 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 11:03
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医師、看護師にもお願い

意識がしっかりあるかどうか確かめるために、心配そうな顔をしながら、怪我を負った人に、「自分の名前は覚えているか?」等の質問をして反応を確かめていたこともあったそうです。

また、オウム真理教時代の付属病院の医師や看護師にも丁寧な治療・看護をお願いしていました。

広範囲なやけどを負った人がいましたが、父が直接医師に、
「よいやけどの治療を施して欲しい」
と頼み、非常に丁寧なやけどの処置を受けられたため、広範囲のやけどだったにもかかわらず、全くやけどのあとが残らなかったと喜んでいました。

駆けつけられないときは、電話をかけて状態を聞いたり、励ましたりしていました。

 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 10:26
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一番、気配りしていた人

父が細やかに気配りしたり、看病したりしたのは、家族に限ったことではありませんでした。

熱を出している人がいたらサットヴァレモンを持ってお見舞いに行ったり、怪我や病気がひどい人がいると、父は真夜中でも車で駆けつけたりしていました。

寝ているところを起こされ、誘導を頼まれたこともあります。

父自身が休んでいるところに報告を受け、すぐに用意をして駆けつけたこともありました。

本人に調子はどうかと声をかけたり、状況を聞いてアドバイスをしたり、元気を出すように励ましたりと、怪我した人の状況や性格に応じたお見舞いをしていました。

怪我が早くよくなるような修行法の伝授をしたりすることもありました。

 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 10:38
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今でも鮮明に覚えています

父の介助は子供心に大変なこともありましたが、父の介助ができるのは、本当に嬉しいことでした。

病気をしたとき、体調が悪いとき、父はわたしのことを心配し、

「ちゃんと飲んでいるか?」

「サットヴァレモン(教団で作っていたスポーツドリンクのようなもの)は2倍に薄めて飲んだ方がいい。その方が吸収しやすいから」

「ストローがあったほうが飲みやすいか? 誰か、ストローをもって来てくれ」

と家族に頼んでもって来てもらうなど細やかな気遣いをしたり、親身にアドバイスしてくれたり、看病してくれたりしました。


 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 09:08
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おもちゃも危険

父は自宅内では、手探りで移動することもありました。

そんなときは、ドアをあけようとして、ドアノブがないところを一生懸命探していたり、ドアでもないところをドアと勘違いして押していることもありました。

そんな父に気づくと、父を目的の部屋まで杖代わりに連れて行くか、「誰の部屋に行こうとしていますか」「○○の部屋ですね? ○○の部屋のドアはもっと先です」「ドアノブはここですよ」「ドアはここです」と教えてあげていました。

父の進路に妹や弟のおもちゃがあると、走って行ってどかしたりもしました。

どかすのが遅れると、父はつまずいて転んでしまうこともありました。

入浴、食事、着替えには、常に介助が必要でした。

入浴の場合は、先に「せっけんはここ、シャンプーはこれ、リンスはこれです」と教えてあげます。

しかしせっけんが父の手から離れて浴室をすべっていってしまうと、父は手探りでそれを探し回り、やがて「誰か来てくれ」とヘルプを求めてきます。

そんなときは石鹸を回収し、父の手に握らせていました。


 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 09:49
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