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父も気づいていたようです

父が東京拘置所に移管された直後の1996年4月初めから父は東京拘置所が提供する食事を一切とらなくなりました。

代わりに、薬を混ぜ込めないような食べ物の差し入れ依頼が家族に来るようになりました。

当時は修行のためかと思っていましたが、父が差し入れ依頼をしてきた食べ物のリストを見ると、目が見えなくても薬が混ぜられていないとわかり、安全に食べられる食べ物ばかりでした。

それとは別に、医師が父に精神安定剤を注射しているところを衛生夫が見たという週刊誌の記事もありました。

 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 10:17
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過剰な向精神薬の投与が招いた結果

そんな父の状態が、週刊誌に載ることがあります。

それを読むと、わたしは父の介護をしに行きたくなります。

視力がない父から歩くことを奪い、森達也さんの「A3」(集英社インターナショナル)によれば過剰な向精神薬を投与し、父を壊したという東京拘置所(63〜64ページ)。

実はわたしも森さんが聞いたとする取材元から直接、父が向精神薬の影響から逃れるため、飲尿療法をしていたという話を聞いています。

「しかし、抵抗しきれなかったみたいだ」
と、その方は仰っていました。




 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 10:47
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病気だと困る東京拘置所

父は今、完全に心神喪失状態にあります。

しゃべることも、自分でトイレに行くこともできません。

かつて面会ができていたころ、父は1人で「うんぶん」というような音を出すか、眠っているような状態か、あるいはけいれんを起こしていました。

けいれんの存在については、こじつけや嘘が多かった「西山鑑定」でも否定ができず触れられています。

しかし東京拘置所は父が病気であると困るためか、父を病人として治療することを拒んでいます。


 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 08:58
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安心感

父がいた当時、わたしはかなり内向的で、本当に思ったことは口に出せませんでした。

またうまくしゃべることもできなかったため、他の人との意思疎通に困ることがよくありました。

わたしの発音が悪く、言葉を聞き取ってもらえないのです。

でも父だけは、口に出さなくてもわかってくれていました。

「ああ、お父さんはわかってくれている」
という安心感がありました。

わたしはそんな父が大好きだったので、父のために何かできることが、とても嬉しかったのです。


 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 11:03
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医師、看護師にもお願い

意識がしっかりあるかどうか確かめるために、心配そうな顔をしながら、怪我を負った人に、「自分の名前は覚えているか?」等の質問をして反応を確かめていたこともあったそうです。

また、オウム真理教時代の付属病院の医師や看護師にも丁寧な治療・看護をお願いしていました。

広範囲なやけどを負った人がいましたが、父が直接医師に、
「よいやけどの治療を施して欲しい」
と頼み、非常に丁寧なやけどの処置を受けられたため、広範囲のやけどだったにもかかわらず、全くやけどのあとが残らなかったと喜んでいました。

駆けつけられないときは、電話をかけて状態を聞いたり、励ましたりしていました。

 
投稿者:三女, カテゴリ:父が全盲であることについて, 10:26
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