RSS | ATOM | 検索

父が全盲であることについて(まとめ)

『父が盲目であることについて』を、最初から読めるようにまとめてみました。まだ読まれていない方は、是非読んでみてくださいね。



■初めに
 
父・麻原彰晃(松本智津夫)は30歳を過ぎてから全盲となったため、杖をついた音で周囲の状況を判断する能力等を有しておらず、1人では生活できませんでした。
今回は、目が見えなかった父がどうやって歩いていたか、どうやって生活していたかを書いていこうと思います。
 
 
■1989年から目が見えなかった父
 
麻原彰晃 三女 アーチャリー
 
父が完全に視力を失ったのは、1989年の秋頃だったと思います。
以前は1人で歩いていた父も、視力を失って行くにつれわたしと手をつないで歩くようになり、やがてはわたしの肩に手をおいて歩くようになりました。
わたしが先に歩き、父がわたしを杖の代わりにして、わたしの後を歩くのです。

 
■父の誘導

父の誘導 三女アーチャリーのブログ

父はわたし以外の家族にも、誘導してもらうことがありました。
視力を失っていく過程では父は近しい人に誘導してもらうこともありましたが、視力を完全に失ってからは、ほとんど家族が誘導をしました。
誘導には細心の注意が必要なため、誘導に慣れた家族に頼んだ方が安心できたのだと思います。


■経行(1)

かつてオウム真理教には、「経行(きんひん)」という修行がありました。「経行」とは、集中して歩くことをいいます。
父は修行の際はたとえ家族であっても、触れることを好みませんでした。

わたしが子どものころ、大病を患った父が、治療の一環として経行を行っていたことがあります。父にとって、治療と修行はほとんど同じ意味を持っていました。
このときは父が居住していた建物の屋上を、父が転んだりしないように清掃し、ビルの端から端までロープを渡しました。

そのロープにつり輪状の器具をつけ、父は最初それを握った上で人に付き添われ、「あと30センチです」とアナウンスを受けながら、1人で歩く感触を確かめました。
安全性を確かめると、あとはひたすら1人で経行をし続けました。
何時間も、何時間も毎日黙々と歩いていました。


■経行(2)

外で経行する場合、誘導者は手摺り代わりのロープなどで誘導して歩きました。
最初は長めの木の枝で試したのですが、結局はロープに落ち着きました。
誘導者や父のすぐ横を歩く人が、「大きな石があります。溝があります。階段が始まります」とアナウンスをしながら歩くのです。

しかしロープを手摺り代わりにした経行は、誘導者の体の動きを感じにくいことと、かなりの速度で歩くため、危険を伴いました。
例えば誘導者が坂を登るときの体の傾き具合、何かを避けるときの体の動きも、父にとっては重要な情報でした。

そのため、父はロープだけで経行することができないときは、やむを得ず片手でロープを持ちつつ、もう片手でわたしを杖代わりにすることもありました。


■事故と隣り合わせの誘導

父の誘導 三女 アーチャリーのブログ

危険な箇所に来ると、数人がかりで父を助けました。
ロープを手放し、両手でわたしの肩を掴むこともありました。その上で、横を歩いている人が、父の体を支えることもありました。石段の高さ、幅など、細かくアナウンスが必要でした。
それでも、幾度も事故が起きました。

危険なのは、「経行」のときに限りません。わたしたちを杖代わりにして歩く際にも、常に危険を伴っていました。
父はわたしたちと比べて体が大きかったため、事故が起きると誘導者も怪我を負いかねませんでした。実際、誘導ミスで父と誘導者双方が、怪我を負ったこともあります。


■さっと手で階段を

誘導者がアナウンスミスをすると、父は壁にぶつかったり、ものにぶつかったり、階段から足を踏み外すこともありました。
一度外国で階段から足を踏み外した父を、父について回って下さっていた現地の方が、組み合わせた両手をさっと父の足元に差し出し、事なきを得たことがありました。

外国では特に、父のまわりには父に随行する人がたくさんいましたが、恥ずかしながらあの方のように父をフォローできた者は、他に誰もいませんでした。
自分の手を階段代わりに差し出した、あの方の自然で素早い動きに、深く感銘を受けたのを覚えています。

■階段から落ちたことも
 
父が階段から落ちる場面をわたしの姉(次女)が見ていますので、姉に頼んで、当時の状況について詳しく書いてもらいました。
20年ぐらい前のできごとであるため、場所など少し曖昧なところもあるようですが、父と父を誘導していたAが、一歩間違えていれば大けがをするところだったことがよくわかります。
 
 
■ある空港での出来事
 
あれはどこかの空港だった。記憶ははっきりしないが、インドだったかもしれない。
あのときわたしは、妹か弟を抱きかかえながら、父の後を追っていた。父に追いついたのは、階下へ向かう階段でだった。
 
道がわからなくなりかけていたので、父の一行の最後尾が階段からはみ出して見えたときは、ほっとした覚えがある。
空港には、ほとんどの場合エスカレーターがついている。このとき父が、なぜエスカレーターではなく階段を使っていたのか、わたしにはわからない。エスカレーターがなかったのか、故障していたのかもしれない。
 
故障の場合、随行者が多いため、より多くの人が一度に降りられる階段を選択した可能性がある。
子どもを抱き父を探して走り回っていたわたしは、とにかく父に追いつけたことに安堵し、「なぜ階段を使うの?」と、他の人に聞く余裕もなかった。
この階段は確か空港の2階から1階に降りるものだった。
空港は1フロアの天井が高いので、2階から1階に下りる階段は長かった。
 
 
■階段の誘導
 
あまり広くない階段だった。その階段を、父はAに誘導してもらい、ゆっくりと降りていた。
父は慣れ親しんだ階段であれば、誘導があればそれなりの速度で降りられた。しかし普段使わない階段だと、どのぐらいの段数があるか、踊り場があるかないかなどがわからず、降りるのには時間を要した。
階段を上るより下りる方が危険なため、より時間がかかるのは言うまでもない。
 
 
■置いて行かれないで済むとホッとしたが……
 
時間をかけて階段を降りる父のまわりには、人が群れていた。
みんな父の元に出家しており、少しでも父の側にいたいという思いがあったのだろう。
子どもを抱っこしており、他の人が邪魔で父の側にも行けなかったわたしは、先に階段を降りて父を待とうと思った。
一行の後についていったのでは、また置いて行かれる懸念もあった。
 
人の間を縫って小走りで階段を降りたわたしは、階段を降りきったところで振り返って父を待った。
 
 
■「あっ!」一瞬の出来事
 
その階段には、途中で狭い踊り場があった。
Aは普段はとても慎重に父の誘導をしていたが、このときはアナウンスミスがあったようだ。あるいは、父が階段までの歩数を間違えたのかもしれない。
父は踊り場がもう一歩続くと信じ、足を踏み出した。しかしそこはすでに階段が始まっており、父の足は空を掻いた。
前につんのめるように、父の体が宙に浮いた。
 
 
■時が止まった……
 
階段を踏みしめられなかった足が、足場を探そうと宙で動く。瞬間の出来事。父とAが、スローモーションのようにゆっくりと落ちていく。
時が止まった。
直後、どどっという音がわたしの耳に届いた。
 
 
■おそるおそる2人の側へ
 
世界が凍り付くのがわかった。
2人とも倒れたまますぐには動かず、恐怖がわたしの心を締め上げた。まわりの人たちも動けなかった。
 
父もAも、わたしにとって大切な人だった。確かめに行くのがこわかった。
打ち所が悪かったら? 父がA の上に落ちて、Aを押しつぶしていたら……。もしこのまま、2人とも動かなかったら――。
だがそれは、本当は一瞬だったのかもしれない。
2人が動きはじめると、凍っていたその場の空気が溶けた。
わたしはおそるおそる2人の側へ行った。
 
 
■体をずらした父
 
階段から足を踏み外したとき、父の手はAの肩に置かれていた。そのまま床に激突していたら、父はAを押しつぶしていていただろう。
だが、父は床に激突する前に、Aを下敷きにしないよう体を少しずらしたようだった。それでも、一部は折り重なっていた。
 
 
■血が……
 
「大丈夫か、大丈夫か、A!」起き上がった父が問う。
「大丈夫ですか、大丈夫ですか?」Aが父に問う。
「大丈夫か、怪我していないか?」
「大丈夫ですか、すみません。本当にすみません。大丈夫です。わたしは大丈夫です」
「本当に大丈夫か?」
 
そのときAは父が怪我をしていることに気づき、何かに追い立てられるようにウエットティッシュを取り出しては、父の傷をぬぐいはじめた。Aはほとんど泣いていた。
「怪我してる。すみません、すみません」父の傷をぬぐったウエットティッシュは、血に染まっていた。
Aが父の傷を消毒するのを助けるため、側に立っていたBさんもウエットティッシュをAに差し出した。
 
 
■海外旅行に必須のウェットティッシュ
 
外国に行くときは、ウエットティッシュや便座クリーナーが必須だった。特に当時のインドは今よりもなお発展途上にあり、清潔さは望めなかった。
また、当時ほとんどのインド人はトイレの際、水と手で尻を清めており、壁、床、椅子、食べ物などあらゆるものから下痢や赤痢に感染する恐れがあった。実際集団で腹を壊し、点滴などの治療を必要とした人たちもいる。
 
彼らはインドの首都ニューデリーで旅の開始時に倒れ、父が旅を終えてニューデリーに戻ってきたところで、一緒に日本へ帰ることとなった。
 
 
■出血は簡単には止まらなかった
 
Aは父をよく誘導していたため、必ずウエットティッシュを持っていた。ほかにも、トイレットペーパーなども父のために必ず用意していた。
トイレがないところを旅することはたくさんあったし、トイレがあってもトイレットペーパーがないこともよくあったからだ。
 
Aがすぐさまウエットティッシュを取り出したのは、父の出血を止めるためと、父が危険な菌に感染するのを防ぐためだったのだろう。だが、父の出血は止まらないようだった。
 
 
■Aの怪我を気にする父
 
ぬぐってもぬぐっても、ウエットティッシュが赤く染まっていく。思ったより傷が深いのかと心配になったとき、
「A! Aの方がひどい怪我してるじゃない!」Bさんの甲高い声が、あたりに響き渡った。
確かにAは、肘や手から出血していた。
ウエットティッシュは最初は父の傷口をぬぐったが、その後はA自身の血を吸っていたのである。
 
「大丈夫か? 怪我はひどいのか?」
「大丈夫です。大丈夫です」
Bさんが差し出すウエットティッシュは、次々と血に染まっていった。それでもAは、「大丈夫です」と繰り返していた。
「どうなんだ、B。Aの怪我はひどいのか?」
 
心配そうに見えない目をAに向ける父は、本当にもどかしそうだった。心配性の父のことだ、目が見えたら、自分のことなど放っておいてAの手当をしただろう。
だが、Aが負った傷がどこにあるかもわからない父には、手当をすることなどできなかった。
 
 
■不幸中の幸い
 
わたしは階段を振り仰いだ。最後の踊り場から延びる階段は、幸いなことに10段ぐらいしかなかった。その踊り場の上には、もっと長い階段が続いている。
もしこれがもっと上で起こった事故だったらどうなっていただろう。いや、たとえ10段ぐらいであっても、階段から落ちるのが危険なことにかわりはない。
 
父がAを巻き込まないよう手と体を離さなかったら、父の体重に押しつぶされ、Aは死んでいたかもしれない。
2人があの程度の怪我ですんだのは、幸運だったとしか言いようがない。
 
 
■危険にさらされるのは……
 
誘導に失敗し、父の体をものや壁にぶつけると、父に「もっと集中しなさい」と怒られることがあった。「危ないだろう」と。
そのときのニュアンスは、「お前も危ないだろう」というもので、言われたときわたしは理解できなかった。
 
確かに誘導に失敗すると、父がわたしにぶつかってしまうことはあった。父の方が身長も高く体重もあるため、場合によっては転ぶ可能性がある。だが、その程度のものだと軽く考えていた。
しかし誘導の失敗は父だけでなく、誘導している人も危険にさらされるのだと、このときはっきりと悟った。
 
 
■自分も気をつけないと
 
父を階段から落としてしまったことで動揺しながら、血を止めるために傷口を押さえるAを見て、自分も気をつけなければと思ったのを覚えている。
 
 
■普通は無意識によけますが……
 
姉が書いた以外にも、一歩間違えば大けがにつながりかねない状況は、少なくありませんでした。そのため、父の誘導をする際は、最初から最後まで集中して行う必要がありました。
例えば、わたしたちは目が見えるため、障害物を反射的によけてしまいます。
しかし一歩遅れてついてくる父は目が見えないため、その障害物にぶつかってしまうのです。
 
角を曲がるときやホテルの清掃ワゴンなどは、とくに無意識によけたり曲がったりしてしまうので、誘導する際には注意が必要です。常に、目が見えない父の立場に立ち、「3歩先に障害物があります」等のアナウンスをする必要がありました。
 
 
■おもちゃも危険
 
父は自宅内では、手探りで移動することもありました。
そんなときは、ドアをあけようとして、ドアノブがないところを一生懸命探していたり、ドアでもないところをドアと勘違いして押していることもありました。
 
そんな父に気づくと、父を目的の部屋まで杖代わりに連れて行くか、「誰の部屋に行こうとしていますか」「○○の部屋ですね? ○○の部屋のドアはもっと先です」「ドアノブはここですよ」「ドアはここです」と教えてあげていました。
父の進路に妹や弟のおもちゃがあると、走って行ってどかしたりもしました。どかすのが遅れると、父はつまずいて転んでしまうこともありました。入浴、食事、着替えには、常に介助が必要でした。
 
入浴の場合は、先に「せっけんはここ、シャンプーはこれ、リンスはこれです」と教えてあげます。しかしせっけんが父の手から離れて浴室をすべっていってしまうと、父は手探りでそれを探し回り、やがて「誰か来てくれ」とヘルプを求めてきます。
そんなときは石鹸を回収し、父の手に握らせていました。
 
 
■今でも鮮明に覚えています
 
父の介助は子供心に大変なこともありましたが、父の介助ができるのは、本当に嬉しいことでした。
病気をしたとき、体調が悪いとき、父はわたしのことを心配し、「ちゃんと飲んでいるか?」、「サットヴァレモン(教団で作っていたスポーツドリンクのようなもの)は2倍に薄めて飲んだ方がいい。その方が吸収しやすいから」、「ストローがあったほうが飲みやすいか? 誰か、ストローをもって来てくれ」。
 
と家族に頼んでもって来てもらうなど細やかな気遣いをしたり、親身にアドバイスしてくれたり、看病してくれたりしました。
 
 
■一番、気配りしていた人
 
父が細やかに気配りしたり、看病したりしたのは、家族に限ったことではありませんでした。
熱を出している人がいたらサットヴァレモンを持ってお見舞いに行ったり、怪我や病気がひどい人がいると、父は真夜中でも車で駆けつけたりしていました。寝ているところを起こされ、誘導を頼まれたこともあります。
 
父自身が休んでいるところに報告を受け、すぐに用意をして駆けつけたこともありました。
本人に調子はどうかと声をかけたり、状況を聞いてアドバイスをしたり、元気を出すように励ましたりと、怪我した人の状況や性格に応じたお見舞いをしていました。怪我が早くよくなるような修行法の伝授をしたりすることもありました。
 
 
■医師、看護師にもお願い
 
意識がしっかりあるかどうか確かめるために、心配そうな顔をしながら、怪我を負った人に、「自分の名前は覚えているか?」等の質問をして反応を確かめていたこともあったそうです。
また、オウム真理教時代の付属病院の医師や看護師にも丁寧な治療・看護をお願いしていました。
 
広範囲なやけどを負った人がいましたが、父が直接医師に、「よいやけどの治療を施して欲しい」と頼み、非常に丁寧なやけどの処置を受けられたため、広範囲のやけどだったにもかかわらず、全くやけどのあとが残らなかったと喜んでいました。
駆けつけられないときは、電話をかけて状態を聞いたり、励ましたりしていました。
 
 
■安心感
 
父がいた当時、わたしはかなり内向的で、本当に思ったことは口に出せませんでした。
またうまくしゃべることもできなかったため、他の人との意思疎通に困ることがよくありました。わたしの発音が悪く、言葉を聞き取ってもらえないのです。
 
でも父だけは、口に出さなくてもわかってくれていました。「ああ、お父さんはわかってくれている」という安心感がありました。
わたしはそんな父が大好きだったので、父のために何かできることが、とても嬉しかったのです。
 
 
■病気だと困る東京拘置所
 
父は今、完全に心神喪失状態にあります。しゃべることも、自分でトイレに行くこともできません。
かつて面会ができていたころ、父は1人で「うんぶん」というような音を出すか、眠っているような状態か、あるいはけいれんを起こしていました。けいれんの存在については、こじつけや嘘が多かった「西山鑑定」でも否定ができず触れられています。
 
しかし東京拘置所は父が病気であると困るためか、父を病人として治療することを拒んでいます。
 
 
■過剰な向精神薬の投与が招いた結果
 
そんな父の状態が、週刊誌に載ることがあります。それを読むと、わたしは父の介護をしに行きたくなります。
視力がない父から歩くことを奪い、森達也さんの「A3」(集英社インターナショナル)によれば過剰な向精神薬を投与し、父を壊したという東京拘置所(63〜64ページ)。
 
実はわたしも森さんが聞いたとする取材元から直接、父が向精神薬の影響から逃れるため、飲尿療法をしていたという話を聞いています。
「しかし、抵抗しきれなかったみたいだ」と、その方は仰っていました。
 
 
■父も気づいていたようです
 
父が東京拘置所に移管された直後の1996年4月初めから父は東京拘置所が提供する食事を一切とらなくなりました。代わりに、薬を混ぜ込めないような食べ物の差し入れ依頼が家族に来るようになりました。
 
当時は修行のためかと思っていましたが、父が差し入れ依頼をしてきた食べ物のリストを見ると、目が見えなくても薬が混ぜられていないとわかり、安全に食べられる食べ物ばかりでした。
それとは別に、医師が父に精神安定剤を注射しているところを衛生夫が見たという週刊誌の記事もありました。
 
 
■糞尿まみれの部屋に放置
 
精神安定剤/向精神薬を飲まされた、あるいは注射されていたという複数のソースがあるということは、父が父の望まない薬品を飲まされ、あるいは注射されていた事実はおそらく間違いないのではないかと思います。
父が差し入れ品しか食べなくなったため、東京拘置所は注射に切り替えたのかもしれません。
 
その東京拘置所は、一日に一回しかおむつをかえず、汚物で汚れた部屋に父を放置していると、元衛生夫の方はおっしゃっています(「週刊新潮」2014年2月6日号)。
人は糞尿まみれの部屋に放置されるだけでも、病気になるでしょう。
 
 
■父の介護をしたい
 
わたしは、父の介護をしに行きたいです。
父を清潔にし、食べ物を1つのどんぶりに全部混ぜて食べさせるのではなく、「これはごはんです。これはお味噌汁ですよ。お味噌汁の具はわかめですね」と声をかけながら、食事を食べさせてあげたい。
 
精神科医であり作家でもある加賀乙彦先生が、かつて大阪拘置所で、死刑囚を一緒に食事をさせたり、一緒の行動をさせたりしたら拘禁反応がかなり消えたそうです。加賀先生も父を治すことは可能だと仰っていました。
 
置かれている環境を変えれば治るのであれば、外部から虐待以外の刺激を受ければ、父はもしかしたら少しはよくなるかもしれません。
しゃべれるようになって、やがては事件について語ってくれるかもしれません。
 
 
■事件を語れるのは父しかいない
 
わたしは、東京拘置所は、意図的に父を壊しているようにしか思えません。
わたしは父と話がしたいです。父が何を考えていたのかを知りたいです。
他の記事にも書きましたが、父の「事件」とはいったいどのようなものだったのかを父の口から聞きたいです。

 
投稿者:松本麗華, カテゴリ:記事のまとめ, 02:20
comments(4), -, -
コメント
管理者の承認待ちコメントです。
-, 2015/05/15 11:59 AM
管理者の承認待ちコメントです。
-, 2015/05/14 11:34 PM
管理者の承認待ちコメントです。
-, 2015/05/14 5:16 PM
管理者の承認待ちコメントです。
-, 2015/05/14 8:24 AM