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今までの経緯(まとめ)

父・麻原彰晃(松本智津夫)と別れてから、20年ということで、2013年11月〜2014年3月までにアップした記事をまとめました。
まだ読まれていない方、読んでいただけると嬉しいです。

父と再会し、会話ができますように。


クローバー アーチャリー 麻原彰晃

■ 家族であるわたしたちですら、詐病だと思っていました

 父は1995年5月16日に逮捕されました。逮捕後はすぐに接見禁止をつけられ、弁護人以外誰も接見ができなくなりました。家族にできるのは差入れのみでしたが、父からは当初、食品などの差入れ依頼や、お礼などもありました。しかし、1996年の11月以降、I証人への弁護人反対尋問があった頃から、明らかに精神に変調をきたし始めました。
 法廷におけるいわゆる「不規則発言」がはじまり、1997年のはじめには、差入れ品が入らなくなりました。差入れ品を受け取るには、本人の意思表示が必要ですので、この頃には既に意思表示ができない状態だったのだと思います。それに加え、同時期に弁護人も接見ができなくなりました。
 その後、一審判決確定、即日一審弁護人が控訴、即日控訴審弁護人の選任などがありましたが、すべてが父の意思が介在しないまま行われました。

 実は、父の不規則発などが報道され始めたころから、2004年に逮捕後はじめて父と接見するまで、実の子どもであるわたしたちでさえ、父はずっと詐病であると信じていました。優しく尊敬していた父親が精神を病んでいると認めるのはつらいことでしたし、逮捕後、わたしより間近で父を見ていた裁判官やマスコミの方々が、父を詐病と扱っていたからです。
 しかし、実際に会ってみると父は報道と違い、完全におかしく、素人目に見ても心神喪失だろうと思える状態でした。



■ 3カ月拘置所に通うも接見拒否

 2004年2月27日、父の第一審裁判が終わり、控訴審となりました。控訴審になってから一ヶ月ほどしてから、父の弁護人は東京拘置所に当初週に2,3回赴き、父に接見を申し込み続けました。しかし、父が接見室に連れて来られることはありませんでした。
 父と一度も会えていない弁護人たちは、困り果ててしまいました。父の意思が一切確認できない。そもそも、控訴をしたいのかどうかすらわかりません。本人の意思不在のまま本当に裁判をしていいのかと、先生方は苦悩していました。
 本人に会えないから控訴趣意書を書くことは不可能だという弁護人に、早く控訴趣意書を提出してもらいたい裁判所も困ったのでしょう。当時の弁護人と裁判所との手続の流れからして、裁判所から東京拘置所に接見をさせてほしいというような何らかの圧力がかかったのか、突如として父は接見室に連れてこられるようになりました。
 はじめて弁護人が父と接見できたのは、7月29日のことだったと聞いています。
4月4日から接見を申し込みはじめ、拘置所に接見拒否された回数は36回以上。控訴してから実に5ヶ月も経っていました。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。



■ 不信、それとも病気――?

 弁護人は接見できるようになりましたが、父とは一切会話が成り立たず、意思疎通ができる状態ではありませんでした。
 「このままでは一行も書けない。麻原さんは自分が接見室にいて、目の前に弁護士がいることもわかっていないかもしれない。それか、もしかしたら麻原さんに、弁護士というものに対する、不信感があるのかもしれないんだよなあ」
 わたしたちに気を遣うように、先生はおっしゃいました。このときすでに、先生の心証は「麻原さんは本当に病気ではないか」という方向で、固まりつつあったのだと思います。しかし父が、「弁護士」という職業に就く方全般に対して、不信感を持っている可能性は確かに否定できませんでした。その理由は、次回書くことにします。



■なぜ、父が「弁護士」に不信感を抱く可能性があったのか?

 1996年10月18日、第13回公判時のことです。この日、検察側証人に立ったIさんの反対尋問を弁護人が行おうとしたところ、父は「反対尋問をしないでくれ」と言い、"弁護側"の反対尋問を制止したのです。Iさんは父に対して、攻撃的な「証言」を行っており、もしここで反対尋問をしなければ、Iさんの「証言」がそのまま事実として認定されてしまいます。弁護側は裁判所に休廷を申し入れ父と話し合おうとしましたが、裁判所は認めず、結局反対尋問が続行されました。弁護人としては、攻撃を甘んじて受けようとする父を、当然放ってはおけなかったのでしょう。
 11月になると父は精神的にも崩壊し、弁護人は父と接見もできなくなっていきました(安田好弘著:『「生きる」という権利』参照)。
 控訴審の弁護人は、まさに父が、「弁護士」というもの全般を、自分の意思で拒否している可能性を危惧したのです。しかし、父と会話が成り立たない以上、病を装っているのか、弁護士全般を忌避しているのか、あるいは本当に病気なのか確かめるすべはありません。
 弁護人は八方ふさがりの状況に追い込まれました。



■ 子どもに確かめてもらうしか……

 それを確かめる有効な手立ては、第三者を面会させることです。しかも、父との関係が深ければ深いほどいい。
 あるいは、先生はいつもわたしたちの心情を思いやってくださるので、ご自身がようやく接見できるようになったことから、今なら子どもたちも接見できるかもしれないと考えて下さったのかもしれません。ある日、先生からわたしと姉に、
 「お父さんと接見したい? 裁判所に接見禁止一時解除を申し立てたら、もしかしたら面会できる可能性がある。もちろん、大丈夫とは言えないけれど。接見禁止解除を申し立ててみようか?」
と聞かれました。
 わたしにとって、"生きる"ことそのものが、大変なことでした。つらいことがあっても、くじけそうになっても、いつか父と会えるだろう、いつか話ができるだろうということだけを希望に、生きてきたようなものです。
 目立ちすぎるという理由で裁判の傍聴に行けなかったわたしは、それまで裁判で父の姿を見ることさえ許されませんでした。姉から聞いた話によると、裁判の傍聴へ行っても、父を取り囲む刑務官たちによって、父の姿はほとんど見えなかったそうです。それでも、ほんの少しでも父の姿を見られた姉を、うらやましく思っていました。もし接見ができるようになれば、父の逮捕後はじめて姿を見ることになります。
「是非会いたいです。よろしくお願いします」
と、即座にお願いしていました。
 少なくとも判決確定までは父と会えないだろう、とあきらめていたわたしたちにとって、本当にありがたい、奇跡のようなご提案でした。



■ 「まさか……」 ふくれあがる不安

 2004年8月17日、まず姉が、家族ではじめて父と接見できました。弁護人が父と一切意思疎通できなかったため、姉から父に弁護人選任の経緯などを説明することになりました。弁護人から姉は、「おそらく、あれは詐病じゃない。本当に病気だ。宇未ちゃんが行っても、わからないかもしれない。覚悟しておいたほうがいい」と覚悟を求められたそうです。
 とはいえ、そういうお話があったにもかかわらず、わたし同様、姉も父が病気だとは信じていませんでした。
姉接見後はわたしが、続いて他の妹弟も接見できるようになりました。
接見の際には必ずノートを持参し、記録を取ることを心がけました。
 接見ができるようになった当初、父との再会を待ちわびていたわたしたちは、話したいことがたくさんあったため、ひたすら父に話しかけ続けました。父は相づちを打ち、笑い、わたしたちの話を聞いてくれているように思えました。しかし、話し続けるうちに、父はわたしたちなど認識できていない。ただ、脈絡もなく笑い、相づちのようにとれる"音"を発しているだけではないか。弁護人の先生の言うとおりなのではないかという不安がわいてきました。接見を重ねるにつれ、その違和感と不安は急激にふくれあがっていきました。



■ 意味がある相づちか、単なる音か

 わたしにとって4度目の接見のとき、父の発する音が相づちなのか、あるいは何の脈絡もないものなのかを確かめるため、わたしたちは接見途中に、一つの試みをしてみることにしました。接見終了までの9分間、沈黙したのです。
 沈黙するわたしたちの前で、父は突然笑い、一人「うん、うん」「えやいん。うん。えんん」と音を発し続けました。
 その次の接見時、わたしは最初から刺激がなければどうなるのだろうと思い、「おはようございます」とだけ言い、黙って父の様子を見守りました。わたしが黙っているあいだに父が相づちのような音を発し始めれば、それは脈絡も意味もない「音」になってしまいます。
 拘置所は父が意味のない「音」を発していることを、悟られたくなかったのでしょう。話をしなければ、接見を打ち切ると通告してきました。
 しかし、しゃべり続ければ、必ずどこかの時点で「うん、えん、いん」という相づちのような音が重なり、「家族と意思疎通ができている」とうそをつかれてしまいます。
 その後の接見でも、わたしたちは話しかけたり沈黙したりして、父の様子を見守りました。やがて、わたしたちは、父が発する相づちのような音に、何の脈絡も、意味もないことを悟りました。



■理性の片鱗を探して――

 沈黙するわたしたちの前で、父は20分も30分も、ただ一人脈絡もなく相づちのような音を発し続けていたのです。――それでも、わたしたちは懸命に、父の中の理性の片鱗を探そうとしました。
 しかし、姉やわたしのみならず、父が成長を見たかったであろう弟たちに対しても何の反応もないのを見て、わたしたちは自分をごまかせなくなりました。
 父にとって、わたしたちは空気と同じでした。接見に来たことにすら、気づいてはもらえませんでした。ひとりうなずき、ひとり笑い、ひとり苦しみ、けいれんを起こし、ひとりうめく。物理的にはアクリル板を挟んで50センチぐらいしか離れていないのに、父はあまりに遠い世界に行ってしまっていました。
 父といつか会い、話すことを支えに生きてきたわたしにとって、父が重篤な病気であるという事実は、絶望的な現実として眼前に突きつけられました。



■    父を"診断"した裁判所

 控訴審の弁護人は、接見が可能になって以来、父の状態について裁判所に報告していました。しかし裁判所は、関心を持たないか、無視をしているように見えたそうです。

 弁護人は、裁判所に接見時の状態を報告するだけでなく、精神科医が作成した意見書を添付し、精神鑑定と、公判手続き停止の申し立てを行いました。意見書は2004年10月26日付け、11月5日付け、12月10日付けの合計3通を提出しました。内容は、「精密検査と治療の必要性」を指摘したものだったそうです。

 しかし、裁判所は医師の意見書も無視し、同年12月10日、控訴審の須田裁判長含む裁判官2名と書記官が東京拘置所を訪れ、「控訴趣意書提出に関する手続き教示」と称して、父と面会しました。

 以前弁護人に聞いた話によると、このとき父が乗った車いすは、失禁して床を汚す恐れがあるため、マットを敷いた上に置かれたそうです。失禁とは、小便あるいは大便などを自分の意思によらず排泄してしまうことをいいます。つまり、父は排出のコントロールすらできないという前提の元で、裁判長から「手続き教示」を受けました。

 家族であっても、父とは一切の意思疎通が不可能なのです。裁判長とだけ会話が成り立つ道理がありません。

 しかし裁判所は、父が相づちのような音を発することをもって、父が「受け答え」をしたことにしました。相手が理解しているかどうかを確かめられない以上、それを受け答えと断定することはできません。にもかかわらず、裁判所は父が「手続き教示」の内容を理解しているようだったと、つまり正常であると、"診断"をしたのです。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。



■人の方を向くと受け答えができたことになる?

 裁判所は父が相づちをして会話が成り立ったとする以外にも、父が裁判所側の列席者の紹介をされる際、そちらの方を見るという「受け答え」をしたと主張したと聞いています。ゆえに、盲目という印象は受けなかったと。
 父は全盲です。父の身辺で介助し、生活を助けてきたわたしからすると、父に視力があるというのは、空想にすぎません。勝手に父に視力があると決める裁判所は、医者なのでしょうか。検査をしたり、長い間父を見たりして、視力の有無を正当に判断したのでしょうか。
 そもそも、ある方向を向くことを、「受け答え」とこじつける裁判所の対応に、疑念を抱かずにはいられません。
 広辞苑によると、受け答えとは、「話しかけられ、または問いかけられて答えること。応答」と書かれています。何かを見ることは、日本語的には"受け答え"とは言えません。
ここまでのこじつけを行わねばならなかったところに、わたしは裁判所のあせりを感じてなりません。

 さらに裁判所は、父が「弁護人」という言葉に対して、笑いで答えるというのが特徴的だったと主張したそうです。父は正常であり、意思疎通ができないのは、相手が「弁護人」だからであると、理由付けをしたかったのでしょう。しかし、家族とも意思疎通ができていない以上、それらはこじつけに過ぎません。父は,誰の前でも,どんな言葉を聞いても,あるいは何も聞かなくても,一人で脈絡もなく笑い,相づちを打ち続ける状態なのです。



■憲法の原則に反してまで

 これまでお伝えしてきたように、裁判所の父との面会は普通の手続とは異なったものでしたが、他にも普通と異なることがありました。
 それは、この「手続き教示」が弁護人にも知らされないまま行われたという点です。憲法は、裁判を公開の法廷で行うことを原則としています(憲法第82条)。弁護人は父の訴訟能力を争っていた以上、訴訟能力があるかないかの心証形成は、公開の法廷で行われなければならないと思います。

 裁判所は自分たちがやっていることが、正当な行動とは思っていなかったのでしょう。彼らは父とこっそり会い、父が正常であり、目が見えるということにしてしまいました。
 弁護人を立ち会わせてしまったら、事実に反する主張をすることはできなくなってしまいます。裁判所が、父が発する「音」をもって「理解していた」と主張しても、弁護人は、相づちのような音と話の前後関係を明らかにして、「ただ脈絡もなく、相づちのような音を出していただけである」と訂正してしまうでしょう。
 よって、裁判所は密室で、自分がどこにいるかすらわかっていない父と、会わねばならなかったのではないでしょうか。
彼らは公正であるべき裁判所としての一線を踏み越えてしまいました。

 この裁判所が行った父に対する「診断」は、のちに裁判所が行うことになる「鑑定」の公平さを根底から失わせるという、暴挙へとつながっていきます。



■    指摘されない矛盾

 わたしはかねてから、不思議に思っていることがあります。裁判所も拘置所もマスコミも、父を詐病と扱ってきました。父は命が惜しくて、死刑を回避するために詐病を装っているのだ――と。

 しかし、死刑を回避したいのなら、裁判所に対してはもっとも病気を装うのではないでしょうか。「鑑定人」を名乗った、西山氏に対してもそうです。「鑑定人」に心神喪失と認めてもらわずして、「詐病」を装う利益が一体どこにあるのか。

 弁護人に対する拒否感があるため、弁護人と「だけ」意思疎通を「しない」のだという強弁もあるかもしれません。しかしながら、父と意思疎通が一切できないのは、わたしたち家族も同様です。それに対しては、父が家族も弁護人の手先だと思っており、よって家族とも意思疎通をはからないのだ、という主張も生じるかもしれません。
 しかし、もし弁護人に「だけ」拒否感があるのであれば、わたしたち家族に、「弁護人を解任しろ」「つきあうな」「弁護士を信用するな」と言えばすむ話です。
 それだけでなく、弁護人は控訴審を請け負っていたときはすくなくとも、立会人のない接見交通が認められていました。父は、
「弁護士は信じられない。解任したい。もう放っておいてくれ」
と弁護人に伝えることも可能でした。
よって、上記の主張は、理屈が通らない主張と言わざるを得ません。

 また、弁護人に対する不信感を強調し、「弁護人以外とは意思疎通が成り立ち正常である」と主張するのであれば、死刑を恐れて詐病を装っているという主張は成り立たなくなります。

 なぜこのような矛盾する主張が、平然と通ってしまうのか、わたしには理解ができません。「麻原」が相手であれば、何でもありということなのでしょうか。



■     密室

 一審の裁判の初期から、父はすでにおかしくなっていました。それは先入観を抱かずに、父の様子を見れば明らかだったと思います。
日本語を話せない父。何かしゃべっても意味の通らないことしか言えない父。裁判所の命令に従えず、強制退廷させられる父。1人うなずき、独り言を言い続ける父――。

 そう、父は"公開"の法廷において、弁護人のみならず、裁判官とも意思疎通を成り立たせることは不可能でした。父は裁判官の命令に従うことができずに、幾度となく強制退廷させられてきました。

 一方で、"密室"で第三者の目がなく、いかようにでも記録を捏造できる場面において、父が「正常である」という"証拠"のでっち上げが行われて来ました。
 「手続き教示」と称した裁判官による父との面会、西山氏による「鑑定」、東京拘置所内での「言動」、東京拘置所に作成された虚偽の「接見記録」。

 控訴審において、マスコミが父の「詐病」を謳い、「正常」だと報道した情報はすべて密室で作成されたものです。

 公権力が証拠のでっち上げをするのは、決して珍しいことではありません。特に取り調べなどの「密室」では、どのような証拠もでっち上げられてしまう。古くは、血痕のねつ造まで行われて死刑判決を出された財田川事件や松山事件、最近では主任検事証拠改ざん事件など、権力による証拠のねつ造は枚挙にいとまがありません。

 しかし、父の場合、公平であるべき裁判所までが「密室」状態をつくり、証拠のねつ造まで行ったところが、より悪質だといえるでしょう。



■ 治療して欲しいという思いが……

 2004年12月20日、裁判所が「手続き教示」と称して父と面会し、父が正常とこじつけようとした10日後――わたしたちは、父が病気であると、記者会見しました。

 問題は、精神科医の意見書を無視し、医者でもないのに「診断」する裁判所だけではありませんでした。東京拘置所もまた、わたしたちが接見したときの「記録」を、わたしたちが父と意思疎通ができているかのように創作し、裁判所に提出していました。
 わたしたちには、もう黙っていることはできませんでした。沈黙すれば沈黙するだけ、さまざまな虚偽の事実をねつ造されていくことは、火を見るより明らかでした。

 父は詐病ではなく、おむつを着けられ排泄すら自分でコントロールできない、重篤な病人です。本当のことを公にして、治療をしてもらいたいと思いました。家族としてそれぐらいしか、病気の父を治してもらう手立てを思いつくことができませんでした。

 このままでは、父は政治的に「正常」と扱われ、治療もまともな裁判も受けられずに、抹殺されてしまいます。

――ところが、記者会見の直後、東京拘置所による接見の妨害や嫌がらせがはじまりました。父の状態を外部に発表したことが、許せなかったのでしょうか。



■ 精神科医の意見書

 記者会見を行ったあとも、裁判所は当然のように、父の状態について無視をし続けました。
「麻原さんは明らかに病気だ。しかしこのままでは、麻原さんが病気だという事実も抹殺されてしまう」
弁護人の危惧はもっともでした。裁判所も拘置所も、本来の役割を逸脱し、はばかることを知りません。
 しかし裁判官が医者ではないのと同様、わたしたちも医者ではありません。素人が「病気だ」と騒ぐよりも、精神科医の先生に父と面会した上で診察していただき、意見書などを書いていただいた方が、説得力は増します。
 弁護人は必死になって精神科医を探し、「麻原さんを見てほしい。見た上で、詐病と感じるならそれでもいい。思ったことを意見書として書いて欲しい」と頼みました。

 2005年7月29日、弁護人は第二次公判手続き停止申立を行いました。
申立に際して、精神科医2名による、意見書と補充書あわせて5通を提出しました。意見書では、「重篤な拘禁反応で混迷状態にある。訴訟能力なし。治療により治療可能性あり」という指摘がなされたようです。

 8月19日、弁護人の動きが目障りだったのか、またもや裁判所が動きました。前代未聞の、前提つきの"鑑定"が行われることになったのです。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。



■ 闇の"西山鑑定"

 2005年8月19日、東京高裁は、弁護人の申し立てた公判手続き停止申立に対し、「職権発動せず」と決定しました。この場合の「職権を発動せず」とは、弁護団の申立を取り合わないということです。

 しかし同時に裁判所は、前代未聞の、「訴訟能力を有するとの判断は揺るがない」と前置きをした上で、「慎重を期して、事実取り調べの規定に基づき、鑑定の形式により精神医学の専門家から被告人の訴訟能力の有無について意見を徴することを考えている(8月19日東京高裁第10刑事部配布書面より)」と主張しました。

 「判断は揺るがない」という前提をつけたのは、明らかに裁判所がまともな鑑定など望んでいないことを示していました。裁判所は鑑定が始まる前から、"鑑定人"に明白に圧力をかけたのです。
 弁護人が次々に提出してくる、精神科医の意見書を黙殺するためには、裁判所の主張を追認してくれる、御用学者が必要だったのでしょう。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。



■刑事訴訟法を無視? まさか……

 裁判所のなりふり構わないやり方に危機感を覚えた弁護人は、裁判所に、「鑑定の形式」につき、刑事訴訟法上の鑑定の規定に基づいて、公開の法廷での鑑定人の宣誓、鑑定人尋問等を求める書面を提出しました。

 しかし裁判所は、裁判所側鑑定人として選んだ精神科医の西山氏に、"非公開"で宣誓させ、刑事訴訟法の「鑑定」の規定に基づく、鑑定人尋問も行いませんでした。
 しかもこの情報が弁護団の耳に入ったのは、後日のことです。裁判所は後ろめたかったのか、非公開の宣誓等を、密室で、弁護人にも知られないようにこっそりと行ってしまったのです。
この話を聞いたとき、弁護人があぜんとしていたのが忘れられません。

 弁護人は西山氏が"鑑定人"として選任されたあとも、さらに、3人目の精神科医による意見書要旨1通と、4人目の精神科医の意見書を、裁判所に提出しました。

 裁判所のやり方から見て、精神科医としてほこりを持った、まともな"鑑定人"が選ばれている可能性は、ほとんどありませんでした。弁護人にできることは、できるだけたくさんの精神科医に父を診せ、意見書を書いてもらうことぐらいでした。できるだけ広く、公正な意見を集めたかったのだと思います。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。



■ 不都合な事実を黙殺した"西山鑑定"

 2006年2月20日、168日もかけた西山"鑑定"の結果が出ました。
西山氏の"鑑定書"は、全部で88ページもあったそうです。しかし、そのうちの65ページは公判記録や東京拘置所の記録で占められ、西山氏の"鑑定"は23ページに過ぎません。
 しかも23ページしかない"鑑定"の中で、実際に西山氏が見た父の状態について触れているのは、たったの4ページだったそうです。

 この"鑑定"はそもそも、裁判所による「訴訟能力を有するとの判断は揺るがない」という前提の元で行われたため、最初から結論が決まっていることは、うすうすわかっていました。しかし西山氏の"鑑定書"は、そのわたしの想像すら絶するものでした。

次回から、"西山鑑定"の内容についても、見てきたいと思います。



■内容を吟味することなく、間違った記録に基づいて鑑定

 西山氏が引用している拘置所の記録には、明かな虚偽も混ざっていました。たとえば拘置所は、食事の際に、父がスープの一滴もこぼさずに食べると主張しています。しかし、父は目が見えないため、こぼすことはしょっちゅうでした。家で食事をするときは、あらかじめ服が汚れないよう、バスタオルを胸元やひざにかけたものです。父の手を持って、おはしやフォーク、スプーンの位置を教えるのも、そばについている介助者の役目でした。
 拘置所は第三者の目に触れない密室です。いくらでも記録をねつ造することができます。

 拘置所にとって、父が重篤な病気のまま放置されているというのは、体面にかかわります。しかも、父は最初から重篤だったわけではなく、時間をかけて病状を悪化させてきました。しかし、もし父を「詐病」という結論に持って行けるなら、治療をせずに症状を悪化させたと責められることもありません。
 つまり、拘置所は父にとっては少なくとも、公平な機関とはいえないのです。その拘置所の報告内容が正確であることを当然の前提として、西山氏は鑑定を行っていたのです。

 西山氏は、なぜ公平とはいえない拘置所などの記録ばかりを引用し、自身でしっかりと鑑定しなかったのでしょうか。西山氏が適正な鑑定をしようとするなら、自分の目で食事中の父の様子を見る機会など、いくらでもあったはずです。



■心理検査は不可能とあきらめた西山氏

 西山氏は、父に対する心理検査は不可能と思い、心理検査を回避したそうです。そもそも、やっていないのです。
 西山氏はまた、父にもうろう状態を認めながら、自分の観察が断片的だからという理由で、結局のところそのもうろう状態を無視しました。鑑定人を名乗っているのだから、もっと長時間観察すればすむはなしです。
 さらに、拘置所の職員が不安そうに声をかけるほどの、けいれんのような発作を父に認めながら、病状において考慮しませんでした。
 父の病状がまだ軽かったときの不規則発言や見当識(現在の年月や時刻、自分がどこに居るかなど基本的な状況把握)障害による発言は、「作話」と断じました。

 西山氏は、父が面会時に発していた、相づちのような音については、問いと意味ある関連はなさそうだと、コミュニケーションが成立しなかったことを認めています。父は西山氏の前でも、話などできる状態ではありませんでした。

 では一体西山医師は168日間もかけて、何をしていたのでしょうか。元々決まっていた結論を、鑑定書という表題の文章に押し込んだだけではないか。論理の破たんを取り繕うための文章を考えるのに、時間がかかっただけではないのか。そう疑われても仕方がないほど、西山医師の鑑定書は論理的に破綻し、意味をなさないものでした。



■    訴訟能力とは

 訴訟能力とは、「被告人としての重要な利害を弁別(物事の違いをはっきりと見分けること)し、それに従って相当(適切)な防御をすることのできる能力」とされています。

つまり、訴訟能力の有無は、被告人が裁判の内容を適切に理解し、適切な行動が取れるかどうかによって判断されることになります。

 しかし、父とは一切意思疎通が成立しなかった西山氏に、父にこんな能力があるかどうかわかるわけがありません。一方で、もうろう状態、けいれん、意味をなさないうなずき音など、父が病気だと疑うに足る事情は西山氏自体が目にしています。

 正常であるという証拠は得られず、病気だという現実ばかりを目にしてしまう。そこで西山氏は、訴訟能力について、彼独自の持論を展開することにしたようです。

 西山氏は、コミュニケーションを行う能力を、「ものをいう能力」に置き換えてしまいました。そうして、ものをいう能力さえあればコミュニケーション能力はあり、したがって訴訟能力があることになる、と結論しました。
 しかしながら、父には「ものをいう能力」すらありません。そこで西山氏は、父がものをいう能力があるにもかかわらず、ものを言わないだけだとしてしまいました。

ものを言わないだけとした根拠は、本当に精神科医の言葉かと、疑わざるを得ないものでした。



■ものを握ったり、ものを食べたりすれば正常?

 西山氏は、"鑑定"の結論で、父に訴訟能力ありとしました。

理由は、父がものを握ったり、食べたりするということができるから――という、驚くべきものでした。

 西山氏によると、ものを握ったり、食べたりできるのに、ものを言わないのは、昏迷(精神的な病気)ではなく、父が自分で選択した無言だというのです。だから父には、ものをいう能力=コミュニケーション能力=訴訟能力がある、というのです。

 訴訟能力については前回書きましたが、被告人が裁判の内容を適切に理解し、適切な行動が取れるかどうかによって判断されることになります。

 ものを握ったり、何かを食べたりすれば訴訟能力があるなんて話は、聞いたことがありません。
正直言って、西山氏が何を言ってるのか、理解ができませんでした。

 これを弁護人が説明してくださったとき、
「どうしてものを握ったり、食べたりすることができたら正常なのですか? 赤ちゃんでもそのぐらいできますよね……」
と弁護人に聞いたところ、弁護人は、黙ってしまいました。こういうのを絶句というのかもしれません。あまりに意味を取れない"鑑定書"に、弁護人は当惑していたように思います。

 精神科医の先生にも、「西山は、医者として恥ずかしくないのか」と怒っている方がいらっしゃいました。
西山鑑定が出されたあと、弁護人は裁判所に、精神科医作成の西山鑑定に対する反論書3通、反論が含まれている補充書などを2通、合わせて5通提出しました。この時点ですでに、6名もの精神科医が、意見書等を書いてくださっています。

しかし、"鑑定"前から判断が揺るがないほど結論が決まっていた裁判所にとって、精神科医の先生方の意見書は、意味をなしませんでした。



■     赤ちゃんにも訴訟能力があるの?

 2006年3月27日、「ものを握ったり、ものを食べたり」すれば混迷ではなく正常であるという、裁判所側鑑定人、西山医師の"鑑定書"を根拠に、父の控訴が棄却されました。
 裁判所は弁護人が診断を依頼したその他の6名の精神科医による、計10通以上の父の精神状態に関する意見書や、西山鑑定に対する反対意見書を黙殺しました。

 父は社会的には非難の的であり、6名の精神科医が、父のために事実の捏造をする必要性はありません。かたや西山医師は、裁判所や国家、社会から圧力を受けた状態で鑑定をしたのであり、鑑定のねつ造をせざるを得なかったと思っています。

 わたしには、「ものを握ったり、ものを食べたり」すれば訴訟能力があるという主張は、まったく理解のできないものです。赤ちゃんでもものは握りますし、食べます。彼らには訴訟能力があるというのでしょうか。赤ちゃんに、
「被告人は○年○月○日に○○県○○市にある○○へ行き……」
なんて語りかけても、せいぜい「ばあぶ?」ぐらいしか言えません。しかし父はその「ばあぶ?」も言えないのです。
 しかも父は、赤ん坊ではなく、50過ぎの成人です。「ばあぶ?」も言えない大人に、訴訟能力があるとはとうてい思えません。



■ 日弁連の勧告−精神治療を実施せよ

 2006年3月の終わりに控訴が棄却され、弁護人は即時抗告、特別抗告を行いました。この間、7人目の精神科医が、またもや意見書を出してくださっています。しかし、即時抗告、特別抗告も棄却され、同年9月15日に判決が確定しました。

 2007年4月になると、東京拘置所による弁護人に対する面会拒否が始まりました。
東京高等裁判所と父との関係が切れて7ヶ月弱、ほとぼりがさめたころに拘置所が面会拒否を始めたことから、この面会拒否が東京拘置所主導によるものであることは、明白だと言えます。しかしそれでも東京拘置所は、弁護人に対し、父の都合で自然に接見できなくなっていったという体裁をとりつくろおうとしました。
「×○○○○○○○×××××○○×××○○××○○××○×××××
○○○×××××××○(接見できたときが○ 拒否が×)」
という具合に、すぐさま完全に拒否するのではなく、自然に面会ができないという流れに持っていこうとしたのです。面会拒否をする際には、「声をかけたけど動こうとしなくて」等、父の具合、父の問題だと主張しました。

 同年11月6日、日本弁護士連合会(以下日弁連と略します)は「人権救済の申立」に基づき、父を在監中の東京拘置所に対し、適切な精神医療を受けさせるよう勧告しました。
 日弁連人権擁護委員会の調査報告書は、東京拘置所にも常勤の精神科医がいるが「必要最小限の精神医療を実施していない」と指摘し、外部の精神科医による診察を受けさせ、薬物療法や医療刑務所での治療などを速やかに実施するよう求めましたが、「病気であってはならない」あるいは、「病気を治してはならない」父に治療が施されることはありませんでした。



■家庭裁判所の調査官や鑑定人ですらも――

 家族に対する面会拒否が始まったのは、8月中旬からのことでした。拘置所は家族に対しても面会拒否・許可を繰り返し、わたしが知る限り、弁護士は2008年4月30日ころを最後に、家族も6月10日を最後に、一切面会ができなくなりました。
 家族で最後に父と会えたのは、姉と弟の二人でした。このとき父の顔は皮膚がむけて赤く腫れ、精神面のみならず肉体もひどい状態だったそうです。
 久しぶりに父と会った弟は、父の状態に衝撃を受け、「あちこち赤いですが、何かかぶれでもしたのですか。それとも、何かに刺されましたか」などと心配して声をかけましたが、もちろん返事はありませんでした。
 あるいは、と思います。まだ少年である弟までも、精神面はいうまでもなく、肉体の状態まで心配してしまったからこそ、拘置所は父を誰とも会わせてはならないと、結論したのではないか――と。
 後年、父を被後見人とする成年後見を申し立てましたが、家庭裁判所の調査官や鑑定人は父への面会を拒否されました。
 わたしが知る限り、08年6月10日以降、父は外部の人の目に触れておりません。父は姉と弟が最後に見た、肉体的にもぼろぼろの状態のまま、東京拘置所によって隠蔽されたのです。



■ 服は糞尿で汚れているので、宅下げできません

 東京拘置所は面会拒否の理由を、最初から現在に至るまで、本人が自分の意思で部屋を出ようとしないからであると、父にすべての責任を負わすような言い方をしています。
 しかし、わたしたちは数十回面会を重ねてきましたが、一度として意思疎通が図れたことはありません。いえ、そもそも父は意味ある言葉を発したことも、わたしたちの言葉に反応したこともありませんでした。そのような廃人である父が、自らの意思で面会拒否をするなど、あり得ないことです。
 父は前述の通り、排泄のコントロールすらできない状態です。面会となると、汚物にまみれた父を洗い、髭や髪を整え、服を着せ替えて面会室へ連れてこざるを得ません。拘置所はそれもいやなのかもしれません。実際、面会時父は清潔にされていましたが、父の服を洗濯したいから宅下げしてほしいとお願いしたときは、糞尿で汚れていて、窓口まで持って来られないと拒否されました。



■ 両目をつぶったまま水道から水をくんでトイレに流せますか

 東京拘置所は、適切に父の身上監護をしているといいます。しかしながら、わたしはそれを信じることができません。父が病気でないとあくまで主張し治療を施さず、あのような状態になるまで放置したばかりか、全盲である父が健常者と同じことができないという理由で懲罰を与えることもありました。
 例えば、1996年の夏、まだ父が弁護人と会話ができていたころのことです。拘置所では夜間のトイレ使用時、水道から水をくんで流す決まりがありました。大きな音を立てないようにするためだと思います。しかし、目が見えない父はトイレの排水装置を利用してしまいました。そのため、軽屏禁という懲罰(受罰者を罰室内に昼夜こもらせる処分)を受けました。これを障害者に対する正当な扱いといえるでしょうか。父が廃人になっていく過程に、拘置所のこのような扱いが関係していた可能性を、わたしは否定できません。



■ 階段から転落も――

 父は今でも、弱視ではあるがわずかな視力があると、一般に報道されています。しかし父は生まれたときから片眼の視力がなく、もう片目も1989年の秋頃にすべての視力を失っています。
裁判所側の鑑定人の西山医師でさえ、眼球結膜が綿のように白濁していると言っており、盲目であることは疑いありません。

 全盲になったあとは、主にわたしたち娘が介助し、歩く際は杖代わりをつとめました。
 杖代わりをつとめるときは、「あと5歩で階段です。3,2,1、階段に入ります。階段はあと6段です。3,2,1、階段終わります」というように、常に進路をアナウンスし続ける必要がありました。
 例えば歩数を間違えてしまったり、ちょっとした出っ張りのアナウンスをし忘れてしまったりすることがあると、階段を転げ落ちるなどの事故を引き起こしました。
 歩くときだけでなく、シャワーや着替え、食事の際にも介助は必要でした。
これらは当然父が逮捕される前のできごとであり、全盲を装う利益など、どこにもありませんでした。



■ 視力があると決めつけられる理由

 しかし――と思います。父には全盲を装う利益はありませんが、父に視力があると決めつけた人たちには、父に視力があると決めつける利益があったのではないか、と。
 父は逮捕後、「早く裁判を終わらせろ」「早く殺せ」という世論の圧力にさらされて来ました。裁判所は父が障害者であろうとなかろうと、病人であろうとなかろうと、とにかく裁判という劇を終わらせねばなりませんでした。
 裁判所は父の弁護人がそろう前から、
「この事件は世界に注目されている事件である。できるだけ速やかに裁判を終えたい。裁判所としては、5年以内に判決を出したいと考えている(安田好弘著:生きるという権利)」
と言ってはばかりませんでした。裁判官は立場上予断を排除せねばならなかったのに、裁判前から刻限を切るほどに、結論は決まっていたのです。
 結果として父の裁判は、被告人である父抜きに進められました。父の精神が崩壊し、いわゆる「不規則発言」などがあると、法廷を侮辱していると父に責任を負わせ、退廷させてきました。その行動は「詐病を装ってまで死刑を回避しようとする、卑劣な人物」として、マスコミに報道され、マスコミの視聴率や売上げアップに寄与しました。裁判所の行動は、マスコミによって肯定されたのです。
しかし、ここで父が全盲だったらどうなっていたでしょう。父が全盲であれば、事件に関して父が果たした役割はなんであったのか、事実認定に時間がかかります。時間がかかれば、裁判所はマスコミにバッシングされる。全盲である父に障害者として必要な気を遣えば、やはり、マスコミにどうバッシングされるかわかりません。
 逮捕後の父の扱われ方を見ると、父は目が見えていなければならなかったのだと思います。



■ 三権分立は本当だと思いますか?

 こんなことを書くと、裁判所はそんなことはしない。裁判は公平だとおっしゃる方もいらっしゃるかもしれません。

――1989年、愛媛県の松山市で追い詰められたタイ人女性による、殺人事件がありました。この裁判は満足な通訳もないまま進められました。支援団体は、タイ人通訳人を補佐するタイ語に堪能な日本人通訳人を法廷に配置するよう求めましたが、裁判長には届きませんでした。判決時、裁判長は、
「判決理由の補足説明については、通訳の必要はありません。検察、弁護人、日本語のわかる傍聴人は聞いてください」
と言い放ちました。
 「補足説明」は長く、法廷内でそれが理解できない者はただひとり、被告人だけだった(深見史著:『通訳の必要はありません』)そうです。
裁判所は、一体どこをむいて裁判していたのか。検察、弁護人、傍聴人のためのものだったのか。
父の裁判でも、まったく同じことが行われました。裁判所は、差別しても批判されない相手に対しては、まっとうな手続きすら取ることを厭うのです。

 そもそも、三権分立とはいわれていますが、裁判所は決して独立した機関ではありません。最高裁判所の長官は内閣が指名、裁判官は内閣が任命します。下級裁判所の裁判官は最高裁判所が作成した名簿によって、内閣によって任命されます。つまり、三権分立どころか、時の政治の影響を強く受けるのが、裁判所という組織です。
 実際、一時期、国家体制に都合の悪い判決が相次いだあと、内閣は政策に理解を示す傾向の強い最高裁判所長官・裁判官を指名・任命するようになりました。
 また、長沼ナイキ訴訟を担当する札幌地裁の福島重雄裁判長に対して、同地裁の平賀健太所長が、判決の方向性を指示する書簡を交付した『平賀書簡事件』をはじめとして、個々の裁判官の独立を侵害する圧力が裁判所の内外からかかるようになりました。
 最高裁が是認できない違憲判決などを下した裁判官が、支部の裁判所や家庭裁判所に左遷させられた例は枚挙にいとまがありません。これらの施策によって下級裁判所での違憲判決は抑制されるようになりました。
つまり、裁判所は政治的な動きから離れたところにはなく、政治の影響を色濃く反映するところといえます。



■ 健常者なの? それとも要介助者なの?

 東京拘置所は、父を文字通り24時間監視しています。健康診断もありますし、父が全盲であることを、知らなかったはずがありません。
 1996年4月、東京拘置所は父に車いすの使用を強要したそうです。理由は、父が健常人と同様に歩けず、職員の介助が必要となり、移動時間もかかるため、というものでした。歩きたいと願う父に、拘置所は、他の被収容者と同様に歩行ができない限り車いすを使用すると、父の願いを拒絶しました。
 普通の生活を送っていると想像しにくいかと思いますが、拘置所に収容されている人にとって、歩く機会というのはとても大切なものです。しかし父は障害者として車いすを強要され、大切な「足」までも奪われてしまったのです。

 一方で、公的に父を「盲目」とするのではなく、目が見えることにしておけば、父が健常人と同じことができないということを理由に、懲罰をいつでも科すことができます。
 なお、父が夜間にトイレの水を流したことで懲罰を科された件は、東京拘置所にいる他の方いわく、誰かしら夜間にトイレの排水装置をつかって流してしまう人はいるようで、「そのことで懲罰を受けるとは考えられない」とのことでした。それが本当だとしたら、父はまさしく言いがかりをつけられ、懲罰を受けたことになります。



■ 「お父さん本当は目、見えるんでしょう?」

 マスコミはどうでしょうか。マスコミは、父は悪魔のような独裁者で、詐病を装ってはばからない卑劣で矮小な人間という人物像を作り上げました。そのような人物像と、全盲の障害者というのは相容れません。それに、もし全盲の障害者と認めてしまっては、マスコミは裁判所のやり方などに、疑義を呈さなければならなくなってしまうかもしれません。マスコミは自分たちがつくった人物像を守るため、また、自分たちの責任から目を 背けるために、父を調べもせずに「有視力者」としたのです。
わたしはマスコミに幾度も取材を受けてきました。取材では、いつも同じようなやり取りがありました。
「お父さん本当は目、見えるんでしょ?」
「いえ、全盲です」
「見えるんじゃないの?」
「わたしが子どものころから、何も見えていません」
と答えると、途端にマスコミの人は興味を失いました。全盲だというわたしの言葉が、報道されることもありませんでした。まさしく、父が全盲であることは、隠蔽せねばならぬ事実だったのです。



■ 後悔

 今思うと、1996年の10月から、父は崩壊を始めていたのだと思います。にもかかわらず、精神を病み意味の通らぬことをしゃべる父を、一審の裁判官は法廷を侮辱していると主張し、幾度となく退廷させてきました。その様子を見て、マスコミは詐病だとかき立て父を人格的に陥れました。父は当時すでに、自分がどこにいて、何をしているか理解するだけの能力は、失っていたでしょう。
 なぜ気づいてやれなかったのか。どうして詐病だと信じ込み、父が壊れていくあいだ手をこまねいてしまったのか。一審の弁護団に、父の病状を確かめることだってできたはずなのに、どうしてそうしなかったのか。まだ子どもだったとはいえ、世間の風潮と本当の病気であって欲しくないという娘としての思いから、わたしは父が壊れるのをただ黙って見ていたのです。

 父と面会ができなくなってから、すでに5年以上経ちました。かつて父を心神喪失状態になるまで放置し、わたしは後悔しきれぬほど後悔しました。今もまた、面会拒否の厚い壁の向こうで、父はただ一人闇に取り残されています。これ以上、座視していることは、わたしにはできません。
父を鑑定して下さった精神科医の先生方は、治療すれば治る可能性があるとおっしゃって下さいました。そういった言葉があったにもかかわらず、父は治療も受けられずに、放置されています。

――今、わたしにできること。それはわたしが見てきた父の真実を、ありのままに公表することだと思います。いかにレッテルを貼ろうと、父は詐病ではありません。父は心神喪失の状態にあり、治療を必要としています。いかに存在しない視力を押しつけても、父が全盲であることは間違いのないことです。

 わたしはただ父に治療を施してもらいたい。父が何も語れなかったことにより、いわゆるオウム事件の真相もわかっていません。わたしは父自身の口から、何があったのか聞きたいです。このままでは、真相もわからぬまま事件を風化させてしまうことになります。それでは、教訓も得られず、似たような事件の再発も防げません。
 なぜ父は治療も受けられなかったのか、その真実もわたしは知りたいです。

 
投稿者:松本麗華, カテゴリ:記事のまとめ, 20:27
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コメント
ミスタースポックの進言

ミスタースポックはアーチャリーにこう進言する、

現在のお父さんの置かれた立場とその情況に関して、その娘の麗華さんはあくまで不当で人権の侵害などと主張する、

しかしミスタースポックの考察からすればお父さんの現在の立場とその情況は全て必然である!

お父さんはそもそも精神医学上の統合失調の気質がありその解離が進行していた。しかしその性質故に、

お父さんはある生命体との融合によりその力を得たが、その力の行使を過ち、
そして薬物依存による、被害妄想と幻覚幻聴などを己れの宗教に結び付け、

暴力団や公安や政治家との関係を画策して、

そして自らが政治に乗りだそうとした。結果としては、今のお父さんの置かれた立場とその情況は全て必然である、



ゴラス, 2017/01/24 7:31 PM
殺人者に人権もないわ
アホ, 2017/01/17 1:42 PM
メリークリスマス、今日は救い主が生まれたとされるクリスマス、この救い主が生まれたとの背景には聖書によると夜空の星の運行が大きく関係する、

12月25日はイエスの誕生日などではなく実際にはミトラの降誕日である、

クリスマスはミトラを土台にしキリストのみだけでなくミトラはマイトレーヤの弥勒であり仏教にも関係している、

宇宙、それは人類に残された最後の開拓地である、そこには我々の想く像を絶する新しい文明、新しい生命が待ち受けているに違いない、

これは人類最初の試みとして5年間の調査飛行に向かったUSSエンタープライズの驚異に満ちた物語りである、

このスタートレックのフレーズは少なくとも50代以上の者は一度は耳にした事だろう、スタートレックは放送開始から今年で調度50年、それだけスタートレックtosは繰り返しアメリカ、日本のみならず世界中で再放送された。

そもそもスタートレックがアメリカSFテレビ番組の最高峰かと思いきやその以外な生い立ちや経緯に驚かされる、

最初にこのスタートレックの企画をプロデューサーのロッテンベリーが考えアメリカのいくつものTV局に売り込むも何処も門前払い、

一つのTV局のみが消極的ながら理解を示しその見本となる、パイロット版の製作をロッテンベリーに指示し、

ロッテンベリーは俳優を集めそのパイロット版を製作するもそのパイロット版ではTV局から酷い酷評されドラマ製作と放映には漕ぎ着くも、当初の予算を大幅に削られ、そのせいかスポック役のレナードニモイ以外の俳優は全てこのドラマから降りてしまい

ニモイ以外の俳優と設定を入れ替えを余儀なくされ、製作し放映するも専門家筋からは更に酷評され人気もなく視聴率め低く失敗作としてシーズン2で打ちきりになる予定が一部のファンの嘆願などからシーズン3に漕ぎ着くも更に予算を削られその放映時間を人気の無い時間にずらされた事などにより

更に視聴率が低迷し全くの失敗作として終了したとの事、

その失敗作であった事でその版権なども安かったのか主に地方局などで再放送をしてそれが評判をよび徐徐に火がつきそれが世界中に拡がり映画化などに繋がっていく事になる、

当初のTV局の門前払いや酷評や人気の無い事での専門家筋からバカにされ続けた事を全て見事にその50年間でひっくり返したと言える、

何がどう化けるか何がどうなるか良くも悪くも分からないとの事である、麗華さん未来も私の未来も誰の未来も良くも悪くも分からない、神のみの知る事、メリークリスマス
ゴラス, 2016/12/25 5:07 PM
管理者の承認待ちコメントです。
-, 2015/05/16 10:28 PM
管理者の承認待ちコメントです。
-, 2015/05/16 9:24 PM