父・麻原彰晃(松本智津夫)と別れてから20年

父・麻原彰晃(松本智津夫)と別れてから20年

 「成長した現在の麗華さんを、麻原元代表が見たらどう思うのだろうか? 嬉しくないわけはないね。」
 こんなコメントをいただき、胸が熱くなりました。父と一緒にいたころは子どもだったから、ちゃんと話せませんでした。言いたいこと、疑問に思ったこと、うまく言葉にできなかった。いまだったら、ちゃんと話せるのに。
 先日、「もし、お父さんが逮捕されなかったら、どうしたかった? お父さんとなにをしたかった?」ふいにそんなことを聞かれ、目の前がぼやけてしまいました。
――考えたこともありませんでした。父と一緒の現在。60歳の父と大人になったわたし。どうしたかっただろう。二人とも強情なところがあるから、喧嘩してばかりだったかな。「お父さんなんて、嫌い」と言っていたかもしれない。今はお父さんを好きだとしか言えないけど、ちょっとした喧嘩で嫌いだとも言える関係。それって幸せなことかも。
 もし、父がいたら、わたしは結婚していたかな。結婚式をしたいと言ったら、父は参加してくれただろうか。そんなあり得ないことが、とっさに頭の中に浮かんでいました。(実際は恥ずかしいので、結婚式はしたくないですよ!)
 昨日、川辺を歩いたら花がたくさん咲いていました。ツツジはもうすぐ散ってしまうようです。次はあじさいの季節になり、あっという間に夏がくるのでしょう。時が過ぎていきます。
結婚式を連想したからか、松田聖子さんの『赤いスイトピー』が頭の中を流れていました。
春色の汽車に乗って、海に連れて行ってよ〜♪
 父の逮捕からぴたりと止まった時計が、本を書き始めてから、ゆっくりと動き始めました。出版後は動く速度が速くなっているように感じています。いまはいろいろなことを経験させてもらっています。そのすべてが未来のわたしを創っていくのでしょうね。
 もしも父が帰ってきたとき、誇れる自分でいたい、何より自分に誇れる人間でありたい。そう願っていましたが、わたしはこれまでそのように生きてこられたでしょうか。
――こうすればよかった。ああすればよかった。そういう思いはあります。しかし、それは過ぎ去ったいまだからいえることに過ぎません。
後になって間違っていたと感じることであっても、そのときそのときを一生懸命に生きていたなら、その結果を受け入れられる気がします。
 「カルペ・ディエム」という言葉があります。ローマの詩人ホラティウスという人の言葉です。日本語では「今を生きろ」とか「今を掴め」とか訳されるようです。考えてみれば、つねに、全力を傾けられるのは「いま」だけなんですよね。そうやって生きられれば、過去は真剣に今と向き合った自分しかいなくなります。
考えれば不安になります。先が見えません。
でも、何とか、自分を大切にして、現実を、いま起きていることを感じて、向き合って生きたいです。
 父と別れてから20年ということで、今日も2013年11月から2014年3月までに書いたものをまとめてアップしました。読んでいただけると嬉しいです。
今までの経緯(まとめ)
 

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