母との関係

母との関係

 
 今日は、わたしと母との関係について記事を書かせていただこうと思います。
 2018年7月9日にアップしたブログの記事、「いま家族としてお願いしたいこと――死刑執行後の一連の動きと報道をめぐって」に、母との関係を問うコメントをいただいていました。
 
 お答えしようと思いながらも、父が逝ったことによる喪失感や心の傷などからずっと書けずにおりました。遅くなりましたが、お返事を書かせていただきます。
 
 
 まずは、いくつもいただいたコメントの内、一つわかりやすいものを抜粋させていただきます。
 
 
「──ご家族でアレフに関わりを持ち続けている方もいますよね?
   以前、朝日新聞記者との対談で以下のように御答えになっていますよね。
   『私がもう、母たちと関わっていないので(略)』
 
 このように仰っていた麗華さんがなぜ今はアレフと関わりが強く息子を代表にしたがっているお母様にお父様の遺骨が渡るように主張されているのですか?
     お母様に渡る=アレフに渡り、神格化され利用される
     とお思いになりませんか?
 
     今はアレフに対して何かしらの繋がりがあり、シンパシーを感じていらっしゃるという事でしょうか?
 
     以前の本を出版された頃のコメントとあまりにもかけ離れた行動をされているので、質問させて頂きました。」
 
 いただいたコメントに直接お返事させていただくと次のようになります。第1に、「今はアレフと関わりが強く息子を代表にしたがっているお母様にお父様の遺骨がわたるように主張している」ことはありません。第2に「今はアレフに対して何かしらのつながりがあり、シンパシーを感じて」いることはありません。
 
 わたしは現在もAlephと裁判で争っており、Alephが行った事実の改変等によって提出された「証拠」や、また、虚偽の事実を記載した陳述書に苦しめられています。このようなAlephとの関係からも、現在私がアレフに遺骨がわたることやアレフに対しシンパシーを感じることなどあるはずがありません。むしろ、Alephから被害を受けた当事者として、今後も不条理に対し闘っていかねばならないと考えておりますし、解散してほしいと思っています。これが現在の率直な気持ちです。
 
 
 これまでにもご説明させていただいておりますが、2018年7月に父が亡くなるまで、わたしは母と連絡を取ることもできませんでした。電話をしても、直接訪ねても、反応がまるでない状態でした。
 
 一方で、『止まった時計』を書いて以降も、裁判資料などから、母がいかにわたしを道具として利用していたのかが次々と明らかになりました。わたしの言葉が一言一句に至るまで創作され、わたしからの伝言として人に伝えられたケースまでありました。
 もう二度と、母と会うことはないのだろう。そう思っていたわたしが母と再会したのは、父が亡くなったあとのことです。
 
 細かい経緯は省きますが、父のためにずっと闘ってきたからでしょうか。父が亡くなった後、わたしや姉の宇未は父と会えずにいました。そんな中、父の弁護人が母と話をしてくださったようで、わたしは姉の宇未や上の弟だけでなく、母と下の弟とも一緒に東京拘置所に行くことになりました。
 今まで無視していた母がわたしたちとの関係をどのように考えていたのかはわかりませんが、母は家族全員で父を悼みたいという意思を示してくれており、肉親を亡くした遺族として、教団など関係なく、ただ家族だけで静かに父を悼むのだと、わたしはそう理解しました。
 ただ、今思うと、父との対面をかたくなに拒否する東京拘置所に対し、松井武先生が東京拘置所と粘り強く折衝を続けてくださらなかったら、家族は父との対面を果たせなかったのではないかと感じております。10年以上父と家族や弁護人を面会させず、父を人目に触れさせなかったことからもわかりますが、拘置所は父を人目に触れさせたがっていませんでした。
 松井先生が多くの時間をかけ交渉を続けてくださったことで、東京拘置所は子どものだけの面会を許可することはできないが、母が同行したら父との対面を許可するという条件をようやく出してきたのです。
 東京拘置所の対応に法的裏付けがなかったことはここではおきますが、いずれにせよ、母と下の弟も、松井先生がいらっしゃらなければ、またわたしたちと同行しなければ、父とは対面できなかったのではないかと思っております。
 東京拘置所には父を遺体のままでは渡せない事情があったようです。家族の意見が一致していないからと、引き渡しを拒もうとしました。母とわたしたちの意見が違うはずだと、対立をあおろうとしたのです。
 
 
 そのため、わたしたち家族は考え方の違いはあるものの、父を悼むという一点について一致団結しようとしました。しかし、拘置所は家族に遺体を絶対に渡さない、自分たちの手で父を焼くという強い決意を最初から持っていたように思います。拘置所はわたしたち家族の同意がないまま父の火葬を強行してしまいました。
 
 ところで、わたしが以前ブログの記事として書いた、「いま家族としてお願いしたいこと――死刑執行後の一連の動きと報道をめぐって」という記事は、母も次弟にも見せています。わたしの名前で出す記事だということで、反対もされませんでした。
 そのため、わたしは、その後も父に関しては、母や弟と連絡を取り、家族としてできることをやっていくのだと思っていました。
 
 また、母とは、父を失った喪失感を共有できるのではないかと淡い期待も抱いていました。結局、生涯で12歳までしか父と過ごせなかったわたしは、母から父のことを聞きたかったのです。父が母から見て、どういう人だったのか。なぜ結婚したのか、結婚後のこと、教団をなぜ作ったのか、事件のことなど母からも聞きたいことはたくさんありました。
 数日しか母と顔を合わせることはできませんでしたが、その中で少しだけ父の昔話を聞けて、正直嬉しく感じました。
 亡き父と過ごせたのは本当に短い時間でしたが、それでも顔を見られてよかったです。そのことについて、母に感謝しています。母がはじめて母親らしい顔をみせてくれたとさえ感じました。
 
 しかし、理由は定かにわからないものの、火葬後少ししてから、母や次弟と再び連絡を取ることができなくなりました。そのため現在は母や弟の真意を確かめることができません。父を悼むということに関しても、現在、母たちがどう考えているのかもわかりません。
 
 上記のような状態になり、すでにかなりの日数が経っていますので、わたしは自分の思いに従って様々なことに当たっていくことにいたしました。
 
 
 わたしは家族として、娘として、ただ一人の実の父を悼みたいと考えています。
 
 公安調査庁が平成31年1月に発行した「内外情勢の回顧と展望」の「二男の誕生日に際し、複数の施設に370人以上を集め、『生誕祭』を開催する(3月)などして、二男の復帰に向けた機運の醸成を図ってきた」という記述が事実だとしたら、上記のいただいたコメントにあるような懸念が、現実になってしまう可能性があります。
 
 わたしは、Alephをはじめとしたあらゆる団体、「宗教」を騙る人たち、あるいは政治的に父を利用しようとする人たちに、父の遺骨を渡すつもりはありません。もし仮に、家族の誰かがそういう意図を持っているのであれば、明確に反対いたします。
 
 以上が、現在のわたしの考えです。
 
 父は、亡くなってからもなお、東京拘置所から法律的な裏付けもなく、「出所」させてもらえない状態が続いています。
 
 
 わたしは、父にはわたしのお父さんでいてほしかった。父は全盲になっても働けるよう、鍼灸師の資格などを持っていました。鍼灸師などで働いて、オウム真理教をつくらず、家族で一緒にご飯を食べて、その日にあったことをお話しして、ときどきわがままを言っては叱られてという、そんなただの親子でいたかった。逮捕されて、生き別れたくなんかなかった。
 
 今からでも、わたしはお父さんに帰ってきてほしい。
 
 もう死んでしまったけれど、お父さんに「お帰り」「待っていたよ」と、ただただ娘として、父を静かに悼みたいです――。
 
 
 
 

母との関係」への10件のフィードバック

  1. 某所公約の記事ですか。
    せっかくですが正直、何がおっしゃりたいか分かりません。

  2. 麗香さんや宇未さんは純粋にお父さんを愛しただけ。
    あなた方には何ら責任はないと思ってます。
    時の経つのは早いですね。お父さんが亡くなって1年経過したんですね。
    辛い気持ちは中々晴れないとは思いますが、故人が願うのは残された家族の幸せです。
    幸せの神様は泣き虫が嫌いだと言いますから、今は難しくても少しづつ笑って行きましょう。
    止まない雨がないように、止まない批判もない筈です。
    お二人には沢山のアンチも確かに存在しましたが、それ以上に応援する者がおります。
    自分の人生の可能性を信じて頑張ってください。
    必ず幸せになれます。

  3. 落ち着いた感じのお話が読めて良かったです。

    今日の昼間も「麗華さんがよりシアワセな人生を送れるには」とお節介なことを考えていました。

    結婚しちゃいなよ。

    うん。

  4. 父親を愛する娘の気持ちが伝わります。私は地下鉄サリン事件の遺族ですが、あなたの父が何も語らず逝ったことは違和感を同じく違和感を感じます。遺族だから家族に賠償しろとかありません。
    ただひとつ生きましょう

  5. 昨年母親が死に、20年間絶縁状態の兄と久しぶりに話しをする機会がありました。

    思想的にいうと、兄は小林秀雄、印象批評で、私は吉本隆明、芸術言語論の立場なので、見解に相違があるのです。

    しかし、久しぶりに会った兄とは、争うわけでもなく、「あぁそうなの。お兄ちゃんやってくれるの」と、葬儀や後始末の話しをしました。

    意見は違えど兄は兄、兄弟なんです。同じ母親から産まれたという事実は変わらない。

    意見は違うんです。でも、それはそれ、話しが別なんですよ。

    ‥と、この話しが分からないというのは、その人が人間じゃないんですw

  6. 俺は(人間は)性欲の化け物だ」というタイプの痴漢。つまり、(人間の)存在が悪だと主張しているわけですが、これは、教えの誤訳から生じています。仏教の誤訳。

    如実知見の所ですね。

    諸行無常

    万物は流動天変し、一切元の形を留めない。これは理解し易いと思うのですが、次に来る

    諸法無我

    なんですよ。諸行が無常であるに関わらず、人々は観念を持つ。どういう観念か?この世は常であるという観念を持っています。

    観念を持つが故に、つまり、実体とかけ離れた思い込みに囚われるが故に、判断を間違う、事態が悪化し続ける。よって

    存在が悪業を生む

    となります。悪業だけの存在であるから

    一切皆苦

    と続くわけです。

     上記痴漢は、この中の“存在が悪業を積む”というタイトルだけを持って来て「これが仏教なんだ」と、分かったつもりになってるんでしょうね、恐らく。

    『生死を超える』如実知見の所です。

  7. ?諸行無常

    であるのに、

    我々は、この世を様々な観念によって見てしまう。

    ?諸法無我

    です。観念には実体が無いにも関わらす、我々は様々な思い込みを捨て切れない。

    なので、

    ?存在が悪業

    となります。悪業を積むだけの存在となります。

    なので、

    ?一切皆苦

    なのです。

    ‥と、こう書くと「存在が悪だ!」と主張し居直る輩と同じじゃないか?となりますが、そうではなく、仏教は、この?から続き、ここから遠離離貪に入ります。

    これはどういうことか?というと、何の問いに対しても、正答を導き出すことが出来ず、判断を間違い続けるだけの我々は、何に関わっても事態を悪化させるだけの存在なので、この世(現世)から一旦離れ、修行に入り、解脱悟りを経、つまり、“きちんと物が見れるようになって”から、今度は観念でなく法則を説きましょうということなのです。そうなると、?の部分が単なる思い込みではなくなり法則となるので、?も善業(もしくは徳)を積む存在と変わっていきます。

    なので、お釈迦様が最初になさった説法のことを初転法輪と言いました。

  8. ?諸行無常

    これは、私達を取り巻く“世界”のことを表しています。

    ?諸法無我

    これは、私達を取り巻く世界に住む“みんな”のことを表しています。

    ?存在の悪業

    これは、取り巻く世界、そこに住む人々、その中に生きる“個”のことを表しています。舞台、演者、その中で我々一人一人は何を演じるのか?ということ。

    実体は諸行無常である筈なのに、諸行無常とは見ずに、現世を肯定(没入)する。この世には様々な法がありますが、どれを取っても(採用したとしても)全て誤りです。数学に例えるなら、ここに問題があって、それを解く為の様々な公式が提示されているが、その全てが間違っている場合、私達は解答を導き出すことが出来るのでしょうか?という話しです。

    その中で、私達は正しく生きることが出来るのでしょうか?ということ。

    世界も、そこに住む人々(の考え)も、個人も間違っている。よって、その総括として、

    ?一切皆苦

    となるわけです。真理ですね。Answer is simple です。

    このロジックを否定出来るものなら否定して貰いたいものですよw

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