わたしの報道について1
2、わたし自身、マスコミに「三女アーチャリー」という人格を勝手に作り上げられ、報道されてきたという経緯があります。行ってもいない場所に行ったことにされ、 やったこともないことをやったことにされ、作り上げられた人格は実際のわたし自身とあまりにかけ離れていました。
やがてわたしは自分の心を守るため、報道される「三女アーチャリー」と実在の自分の人格を切り離して考えるようになりました。 事実と異なる「三女アーチャリー」の報道を見ても、「アーチャリーさんって、今度はそんなことをしたんだ」と感じるようになりました。
……そうはいっても、報道されているのはわたしに関してのことであるはずなのに、名前だけを利用され、“わたし”ではない 「三女アーチャリー」という別人格を作り上げられる日常には、何とも言えない不快感と、悲しさがありました。
マスコミの人にいくら間違いを抗議しても、何も変わりませんでした。
「わたしの報道について1」への3件のフィードバック
上祐さんとその光の輪を考える3
よくシラバに出会す、シラバを掻い潜るなどと言う、
これは、私が思うに生死を左右する事態に直面しこれに出会す。或いは一歩間違えればその命を取られる事態を回避して潜り抜けた事などを意味すると思われる、
このシラバを掻い潜るは当に20年前の上祐さんが置かれた状況がそうであった。
上祐さんも他の教団幹部達と同じく一歩間違えれば、今頃は死刑囚か刺殺されている、
それを上祐さんは見事に回避して重い罪にも課せられる事もなく生き延び、
単に生き延びただけでなく自分の教団を立ち上げてこれを主宰している、
この事実は上祐さんのその優秀さを当にその身をもって証明している事と思われる、
どんな状況に置かれ追い詰められ様と常に冷静で的確な判断を積み重ね、最悪な事態を回避して次に繋げるその行動である、
つまりどんな状況においても生き延びるすべを上祐さんは知っておりその的確な判断と次への行動が上祐さんには出来る知性と思考があると言える、
これは私の様な上祐さんと真逆な知能の低い人間には到底に自信が無い事である、
しかしながら単に知能や知性が高くても出来る事ではない、
上祐さんと同じく高学歴でもよくある幼稚園から大学までのエスカレートでの裕福な環境で育った様なエリートでは難しいとも思われる、
私が思うに上祐さんの場合は人一倍に恵まれた裕福な環境で生まれ育った訳ではなく比較的に普通の環境からその才能と努力でのエリート優等生て思われる、
同じエリート優等生でも貧弱で貧相なエリート優等生とは上祐さんは明らかに違う、
現在、この日本では年間約3万人の自殺者がありそれらはあらゆる困難や絶望的状況に悩み抜いての自殺もかなりある、
その様な自殺に追い込まれてしまう人々にこの上祐さんの爪の垢でも少しでも呑ませれば、その自殺者は激減する、
その意味でもこの上祐さんの光の輪の教えは真に有効である、
現代の単に葬儀屋や法事屋やお墓管理のみの役割でしかない、単なる先祖供養と死後の極楽浄土への為の全く形骸化した既存の御寺とは光の輪は明らかに違う、
上祐さんの光の輪での話は本来の御寺のあるべき僧侶のあくまで生きる為のその法話に近いものがある、
それは例え上祐さんが先天性のサイコパスであってもその価値は変わらない、
なので麗華さんは例え世間の知らない上祐さんの人間性を知っていても、
麗華さんにとってもこの上祐さんの麻原彰晃こと松本智津夫に関する話など聞く事は意義深いのである、
しかし上祐さんは所詮は哲学や心理学の域を出ない、上祐さんからは生命体は形成されないのである、
上祐さんとその光の輪を考える4
私も上祐さんのその爪の垢でも呑めれば今とどれ程違うかとつくづく思わされる日々である、
しかしながらその上祐さんと私とではその前提の上祐さんの様な私は優等生でもエリートでもなくその真逆な人間だし
私には上祐さんの様な高い知性や知能なども無く無学で知能も低い人間である、
しかしながら何であれこの上祐さんから学ぶ事は多く、ある意味では麻原彰晃から以上の学べる事もある、
なのでこの上祐さんの類い稀なるそのスマートさを考え学ぶ事は誰であれ意義深いのである、
その上祐さんの類い稀なるスマート性の根源を私が考えるに、
先ず上祐さんは平気で見事な嘘を言える、その嘘に殆んど淀みが無い、少なくとも素人目には疑う余地が無い、
上祐さんは後に一連のオウムの凶悪犯罪に関し実際には知っていた。気付いていたと告白しているが、
その認識の上での上祐さんの過去の一連のマスコミに対するそのオウムの広報としての弁明であり、当時、私などには少なくともテレビ越しには上祐さんが嘘を言っているとは思えなかった。見事な嘘の付き方である、恐らく他の教団幹部ではこうは行かない、況し私などには到底無理である、
それに上祐さんは一連の凶悪犯罪の時はロシアに行っており何も知らなかったとしているが、私はこれは事実でない様に思える、
実際にはその犯行前に麻原なり他の教団幹部からその考えなり計画なりを聞かされてその余りに短絡的かつ破滅に繋がりかねないと上祐さんはこれに反対しそれを煙たがった麻原なり他の教団幹部によりロシアに飛ばされ、
帰国してからそれらが実行された事を知らされて、やむを得ずそのマスコミへの対応の広報にあたったと思える、見事な広報としての対応である、
つまり上祐さんは凶悪犯罪の実行前にその考えなり計画なりを知っていた。
しかしその事実では共犯を追求される恐れがあるので、公安との司法取引により端から何も知らなかったとしたと思える、
次に上祐さんは世間やその政治のプロレス性をよく認識している、上祐さんは一連の騒動の後の落ち着いた10年、15年、20年後の伏し目の時期にマスコミのインタビューに応じたりテレビ番組などに出演している、
いずれも、上祐さんに対する若干の批判はあれ事件の核心や上祐さんの責任の核心に付いては何故か触れられず不問化されている、
これは上祐さんが、インタビューや番組出演に応じる際にマスコミなりテレビ局との事前の折衝があり、内容が不自然にならない程度の批判は許容して核心については避ける様に事前に調整していると思える、
明らかにいずれもぶっつけ本番とは
思えない、
テレビ中継される国会での野党の与党に対す疑惑追求などの舞台裏の構図と全く同じである、
つまり上祐さんは政治家並の根回しが出来る能力がある、 これも私などには到底その真似も出来る事ではない、
そして上祐さんにはその良心の呵責なる事が全く無い事である、上祐さんには過去のその自身を窮地に追いやった事の反省は人一倍にある、明らかにある、
しかしその実際に起こった犯罪に対するその良心の呵責は上祐さんには実際のところ微塵も無い、
上祐さんにあるのはあの時の判断は間違いだった。あの時の行動は軽率だったとかの反省のみである、
これは上祐さんに限らず日本の先の戦争での内容や結果に対する日本人の大方の意識と同じである、
なのでこれはオウムである以前の上祐さんの日本人としてのその日本人の中の優等生エリートの意識である様に思える、
いちいちその罪の意識に苛まれていては到底に生きて行けない、あの岸などなら何百回と自殺しても足り得ない、
良心の呵責の全く無い事がその人間を生かしている、
これもその真逆な私などには到底に達する事の無理なその境地である、
しかしながら、この上祐さんのこの生きざまこそ、真に人間が生きる、日本人が生きる、その優等生エリートが生きる事のあるべき姿である、見上げる実に見事な在り方である、
脚本 レナードニモイ
主演 レナードニモイ
演出 レナードニモイ
レナードニモイ