わたしの報道について2

わたしの報道について2

 
わたしは何度も、「あきらめよう。これが自分の人生だ」と自分に言い聞かせました。
しかし、別人格が報道で一人歩きしているのを見たり聞いたりすると、そのたびにアイデンティティーを 揺るがされました。それはとてもつらいことで、あきらめのつくような軽いことではありませんでした。
自分に関しては、報道が嘘か本当かはすぐにわかります。その日、わたしがそのときその場にいなかったのに、 マスコミには、わたしが実際にそこで何かをやったことにされます。たとえ客観的に間違った報道でも、訂正されることはありません。 そんな環境で育ったために、見えてきたものがあります。
悲しいことですが、マスコミにとっては、嘘でも売れたらいい。視聴率が取れたらいい。あるいは、国や権力、スポンサーに 気に入ってもらい、営利目的の企業としてうまくやれればいい。真実なんて関係ないのだ、と。
そして、それは父に関する報道についても同様なのだ、と。

わたしの報道について2」への2件のフィードバック

  1. 人には時とし不幸な境遇、望まない境遇がありますよね、

    以前に麻原さんの娘の4女の方の本を読んだ事があり、報道番組の4女へのインタビューも観ましたが、4女の方は自然な娘の父に対する思いはありながら、社会の在り方としてその父である麻原さんを全否定しざる得なく、その麻原さんの娘である境遇をあくまで悲観しその境遇から逃げる姿勢の様にも自分には思えました。

    それに対し3女の松本麗華さんは世間や社会がどうであれ、娘の父に対する思いは貫き、自身の境遇と格闘しその境遇に対し前向きな姿勢が自分には感じられます。

    自分も余り幸せな境遇とは言えず。その境遇に悲観し自暴自棄になったりなげやりになる事はあります。

    しかしその望まない境遇に対し単に悲観しなげやりになり逃げるのと、あくまでその境遇に対し戦い前向きに生きるのではその将来に違いがある様に思います。

    なので私は松本麗華さんからそのあくまで戦い前向きなパワーを少しでも分けて貰いたいと思います。

  2. 麗華さんが世間にアーチャリーである事を顔出しで公表ししかもそれを誇示する主張をする事は想像を絶する勇気が要ります。

    当然にその神経を疑う意見なり世間の批判はあるでしょうね、

    しかしその自己の神経を疑う意見や批判や誹謗中傷もあえてそのコメントを削除しない麗華さんのその判断に私は最大級の敬意を送りたい!

    麗華さんには刑事責任は無い、責任ではなくあくまで境遇の問題、

    それは理屈でしかなく世間はあくまで感情に左右されます。

    麗華さんはその世間の軽薄かつ非情な感情に向き合わなくてはならない、

    それが麗華さんの境遇であり宿命でもある、

    しかしその麗華さんにあえて繋がり麗華さんから力をもらい麗華さんに力を与える方も少なからず必ずいます。

    人は石垣、人は堀、

    世間の砂上の楼閣の人間関係より麗華さんの境遇の関係の方が価値があり意味もある、

    麗華さんは何らのメゲル事も落ち込む事もありません、砂上の楼閣でない強固な石垣と堀を築いて行きましょう!

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