今日は、一休み

今日は、一休み

私はときどき、拘置所に行きます。
なんとか父を一目見ることができなかという気持ちからです。
わたしは今、父と面会ができません。父の姿を、見ることもできません。
いつも思います。
父の状態があまりにもひどいからこそ、面会をさせられないのだと。
面会ができていた頃よりももっと、父の状態がひどくなっているのだろうと思い
ます。
面会ができているときも、父とは「会っている」感じがありませんでした。
どこかまったく違う世界にいる父 を「見」ていることしかできない。
しかも、いつもつらそうな父。
面会できているときは、そんな父を「見る」のがつらかったです。
でも、今となれば、贅沢な悩みだった。
もっともっと面会に行けばよかったと思っています。
 

今日は、一休み」への2件のフィードバック

  1. キリストを考える

    お父さんの頭の中から生まれた想念の産物の麻原彰晃は生まれて凡そ30年余りだが、既にお父さんから離れ単独の生命体を形成し

    もはや消し去る事も無くする事も出来ない、これを信じる者の中でその細胞は生き続けている、

    その生命体の凡そ30年は生まれて未だ間もない、これからがその成長である、
    そしてその想念の産物としての生命体の麻原彰晃のその先駆者的存在は同じく想念の産物の生命体であるイエス キリストである、

    イエス キリストが麻原彰晃の先駆者などこのイエス キリストを信じるクリスチャンなどは怒るかも知れない、

    しかしその想念の産物として生命体である事はイエス キリストも麻原彰晃も同じである、

    だが、イエス キリストと麻原彰晃とではその歴史や内容において全く桁違いである、比較にならない、巨像と小鼠以上の開きがある、

    このイエス キリストにおいてはお父さんの麻原彰晃こと松本智津夫も他の万人同様に罪人の一人に過ぎない、全て例外無く罪人の一人に過ぎない、罪人でない者は誰もいない、

    しかしそのイエス キリストはその根本である聖書に書かれたイエスは実在などしなかった。あくまでその想念の存在に過ぎない、

    このイエスの元になる人物はいたかも知れない、もしいたとしたらお父さんと同じく何らかの極悪犯罪人でありその極刑での十字架刑であったかも知れない、しかし聖書に書かれたイエスとはかけ離れている、

    あくまで神の子としてのこれを信じる者の中の救い主キリストとしての想念の産物としての生命体である、

    このイエス キリストはその発祥から約2000年間の間、これを信じる者の中でその細胞は生き続け人種や国家を越えて成長を続け、世界最大の世界宗教として君臨し人類を導いていると言える、

    今年はこのイエス キリストの誕生から2016年である、

    このキリストを受け入れる者は如何なる迫害や困難をも克服しそのキリスト者としての役目を果す存在になる、

    イエス キリストとはそのイエスは人物の固有名詞の名でありキリストは救い主の代名詞である、

    私はそのクリスチャンではない、今まで既存のカトリックやプロテスタントの教会を通ったりしたが、結局はその洗礼なと受けてはいない、

    私は教会を信じないアノニマスである、
    しかし常に自分の中でこのキリストとは何かを考え思い浮かべている、

    如何なる社会やその政治や誰よりも結局は頼りになるのは自分の中でのそのキリストである、

    それ以外は全て虚構に過ぎない、

    麻原彰晃もこのイエス キリストと同じ想念の産物の生命体としての過程を辿り成長すると思われる、

    麻原彰晃はこれを受け入れる者の中で何かを問いかけ、何かに導く、

    私が思うに麻原彰晃は自然を問いかけ自然に導くと思われる、

    麗華さんのアーチャリーにはその母胎となる資質があるのである、

    神の御加護を、

  2. キリストを考える2

    キリストはその教会で知るとは限らない、

    何故ならそのキリストを語る神父や牧師は所詮は誰であれ罪人に過ぎないからである、

    キリストはそれを書いた本で知るとは限らない、

    何故ならその本を書いたのは所詮は誰であれ罪人に過ぎないからである、

    時にキリストは寺の僧侶やそのへんのホームレスから知る事もある、

    キリストは自分の中で知る事である、

    聖書にあるキリストは人間の嘘、妬み、嫉妬、偏見、強欲、傲慢、裏切り、暴力の中で生きたイエスの生きざまと末路の話である、

    この嘘、妬み、嫉妬、偏見、強欲、傲慢、裏切り、暴力はその聖書の中だけにある話ではない、

    いつの時代もどの民族にもどの世界にも誰にも必ずある事である、

    オウムにもあった事である、

    その教祖であるお父さんの麻原彰晃こと松本智津夫にめあった事である、

    そのお父さんを批判し犯罪者として糾弾した者にもある事で人間には誰にもある万人罪人の原則である、

    当然に麗華さんにもあり上祐さんとは私は違うなどとは決して言えない、

    全ての人は誰であれ罪人であり罪人でない者は誰もいない、

    なので麗華さんが自分の父は罪人ではない、罪が無いなどとは決して言えないのである、

    何故なら全ての人は誰であれ罪人だからである、

    なので麗華さんはその愛する父であれオウムの教祖であった事での、その松本智津夫はその傲りや傲慢や強欲などはあったその罪人である事は認めるべきである、

    それは特別な事では決してなく他の万人と同じ事である、

    その上でその罪人である松本智津夫に教祖を担わせた麻原彰晃の意味やその目指した事を考えなくてはならない、

    これはイエス キリストにその元となった人物が過去に実在したとすれば、その人物にもお父さんと同じ事が言えるのである、

    つまりキリストを知る事とは人間は全ての者が罪人であり罪人でない者は誰もいない、

    そしてその誰にもあるその人としての罪を知る事である、

    麗華さんはお父さんを罪人でない言えないし、その人としての罪を否定は出来ない、

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